Sightsong

自縄自縛日記

四方田犬彦『ソウルの風景』

2009-09-05 23:59:59 | 韓国・朝鮮

鞄には2冊の本を入れておくことが多い。重いものと軽いものである。そうすれば、どっちの気分でも、とりあえずは電車や飛行機の中で読みすすめることができるからだ。

今回、フーコーとドゥルーズとの対話を読んでいて、ちょっと現実との乖離に辛くなったので、四方田犬彦『ソウルの風景―記憶と変貌―』(岩波新書、2001年)を取り出した。これがやめられなくなって、さきに読了してしまった。 

四方田犬彦は、1979年の朴正煕暗殺時に、ソウルに居合わせている。 本書には、さらに驚くべき体験が書かれている。KCIAが新規に採用するスタッフの面接にあたって、日本語能力を判断するという役割のために突然呼び出されたというのだ。この話は本書が書かれるまで誰にもされていない、というのは、密告と曲解がKCIAの脅威を支えていた時代にあっては、どんなことになるかわからないからだ。もちろん「アカ」と呼ばれることは、韓国では死を意味した。先日亡くなった金大中を1973年に東京で拉致して殺しかけたのもKCIAである。

ところが、もはやそのような雰囲気はどこかに消え去ってしまっている。

「人を見たら「北傀」のスパイだと疑えといったあの時代は、もう完全に終わってしまったのだ。今この場所で映画を勉強している学生たちは、すでにもの心ついた頃から民主主義を空気のように当然のこととして受け入れてきた世代なのであり、彼らにしてみればKCIAのことなど日帝時代同様、遠い過去の出来ごとにすぎないのだろうと、わたしは思った。」

そして、「太陽政策」を掲げる金大中が2000年に北を訪れ、金正日と握手を交わしてからは、主思派(チュサッパ)と呼ばれる学生運動の指導者集団は闘争目標を失い、きわめて孤立した状況にいる、とする説明は興味深い。

1980年、蜂起した民衆を軍部が虐殺した光州事件についても、軍事政権が終わり、金泳三が歴史的意義を認めるまで、口にはできないことだったという。そして今や、それどころか、国を挙げて光州事件のアピールがなされ、事件の直接の関係者の墓は「英霊」と呼ばれているという。この構造を、日本の靖国のそれと比較してみると、さまざまな違いが現れてくるようだ。

従軍慰安婦に関しても、世代間のギャップが著しいようだ。当事者、被害者たちはどんどん歳をとってゆき、方や、朝鮮史について基礎的な知識も持ち合わせていない日本人のOLが「ナヌムの家」を屈託なく訪れていることの違和感が、ここには提示されている。

「彼女たちはいったい何だろうかと、わたしは考えていた。おそらくナヌムの家を訪れることは、気楽に、そして友好的な気分のうちに遂行できる虚構の巡礼の一種なのだ。そこで彼女たちは、日本での生活ではどこまでも曖昧なままにされている自分の、女性としてのアイデンティティを、明確に確認することができる。少し過酷な表現になるかもしれないが、元宗主国の国民である彼女たちは、女性である自分を認識するために、旧植民地での従軍慰安婦との出会いという悲惨にして善意の物語を必要としているのではないだろうか?」

それはともかく、軍事政権下の閉鎖空間にあって、ヴェトナム戦争によって得た外資により発展し、変貌した韓国と、旧宗主国にして朝鮮戦争により発展し、歴史認識が子ども的な日本とは、違いがありすぎるのだという当たり前の事実がある。それをまじまじとは見ず、民族や文化の差異をブームにしていくあり方は、前向きのようでいて、極めて皮相的である。

●参照 
金浩鎮『韓国歴代大統領とリーダーシップ』
尹健次『思想体験の交錯』
四方田犬彦『星とともに走る』


翠川敬基『完全版・緑色革命』

2009-09-05 01:32:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

1976年、「INSPIRATION & POWER vol. II」のプログラムのひとつとして演奏された、翠川敬基の「名状不可能」。その後、この日の記録が、『緑色革命』としてつくられた。翠川を中心に、3人とのソロが行われ、その2つを収録したものであったが、今回、doubt musicから出たCDは、残る1つを追加した2枚組である。この時代に、こんなものを出すという行為はきっと心意気そのものであり、大拍手だ。

翠川のチェロ、ベースと組む3人とは、富樫雅彦のパーカッション、高柳昌行のギター、佐藤允彦のピアノ。

今回追加されたのは富樫とのデュオ「スミナガシ」だ。富樫の音はそれとしか聴こえない独自のもので、<響き>のために要らないものを全て削ぎ落としたような印象がある。演奏は、富樫の鳴らすチャイムベルの音で始まり、終わる。その間の、チェロとパーカッションとの間合いと絡みは緊張感があり、かつ愉快だ。終わったら、また頭から聴きたいという気にさせられてしまう。そういえば、富樫雅彦が亡くなってから2年が経っている。

高柳とのデュオ「くわの木より生まれ出づる姫に」は、微分的であったり、戦闘的であったりと場面展開が素晴らしい。終盤に、まるで溜めていた息を吐き出すかのような、獣の唸りのような局面があり、声をあげて身震いする。柔軟で頑強な両面を感じさせるチェロの押し引きがある。

佐藤とのデュオ「マタロパッチの戦い」では、チェロではなくベースを使う。録音が非常に良く、大きなスピーカーで聴くと、ベースの軋みや誰かの小声が聴こえてくるのは快感だ。何より、砕けるダイアモンドのような煌きとぎらつきを放散する佐藤のピアノが凄い。低音でベースを支えていた(!)かと思うと、突如表にまろび出てくる。そして障壁を取っ払って突き進む時間が訪れる。

いや、どの演奏も本当に凄い。この時代に戻って彼らの活動を目の当りにできたなら、と夢想してしまう。

私自身は、翠川敬基の演奏を聴いたのは、もう10年くらい前が最後だ。いまは大泉学園にあるライヴハウス「in "F"」が保谷にあったころ、故・井上敬三と共演したときだった。坂田明は教え子で・・・と満面の笑みを浮かべて話す好々爺で、「グッドバイ」などを吹く姿には、既に先鋭さはなかった。


井上敬三と翠川敬基、in "F"、1999年頃 Pentax MZ-3、FA28mmF2.8、Provia 400、DP

●参照 富樫雅彦が亡くなった