市田良彦『ルイ・アルチュセール ― 行方不明者の哲学』(岩波新書、2018年)を読む。
「出来事」、あるいは廣瀬純氏によれば革命。無数のそれらが偶然の出逢いや偶発時のように並行し、雨のように降っている。
スピノザはすべてを神の創造する世界として見た。しかしアルチュセールはスピノザを「ねつ造」し、その認識という過程をスピノザとは別のあり方で差し挟んだ。デカルト的な認識ではない、われわれは互いに雨粒なのだから。ここに無数のアーカイヴの可能性を説いたフーコー(『知の考古学』)への影響があるという。
また、誰もが行方不明者であり無数の一であるがゆえに、我はと声をあげる者は狂っており、「出来事」であり、ひょっとすると「革命」である。その「出来事」や「革命」も本質的に固有名詞付であり、だから存在とは本質的に狂っている。どのような歴史の語りも狂っている。われわれは皆狂っている。
そのようにこの狂った書物を読んだ。