ゼイディー・スミス『The Embassy of Cambodia』(Hamish Hamilton、2013年)を読む。
コートジボアール出身の女性・ファトゥ。ロンドンの郊外の家で、使用人として働いている。家の人が不在になる毎週月曜日の午前中には、その家が契約するオカネ持ち向けのフィットネスセンターに行って泳ぎ、その後、ボーイフレンドのオゴリで、チュニジア風のカフェでモカとケーキ。
通り道には、郊外だというのに、カンボジア大使館がある。塀の中では、いつも、誰かがバドミントンに興じている。見えるのはラケットと羽根だけ。行ったり来たり、羽根の往復をつらつら眺めつつ、ファトゥはいろいろなことを考える。わたしは奴隷ではない、なぜならば。神はあらゆる者に平等だ、なぜならば。
そしてファトゥは突然解雇される。寒い道の脇に座り、バドミントンの羽根の往復を淡々と眺める。行きは暴力、帰りは希望、などと夢想しながら、ボーイフレンドを待ちながら。
ロンドンにおける若い移民は、成長の揺らぎと、社会の立脚点のあやうさと、異なる考え方とで、常にぐらぐらしている。奴隷として扱われる他者と比較することで、自分のアイデンティティを確認していたはずが、突然、暴力的に宙ぶらりんとなり、感情の制御に苦しんだりもする。そして、それを窓から眺める「私たち」なる存在が、全体を中途半端に包み込む。
1日で読めてしまう短い小説ながら、テキストのなかに印象を封じ込める凝縮感がただごとでない。また、宙ぶらりんの状態を余儀なくされるのは、ファトゥだけでなく、読者だってそうなのだ。
ゼイディー・スミスはまだ30代にしてこの手腕。もの凄い作家なのかもしれない。