おとうと
2010年/日本
‘ユーモア’の終焉
総合 90点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
私は山田洋次監督の作品に通暁しているわけではないが、2002年の『たそがれ清兵衛』では‘侍の終焉’を、2008年の『母べえ』では‘思想の終焉’が描かれていたと思う。ここでの詳しい説明は煩雑になるために避けるが、いずれにおいても侍であることが侍自身を苦しめることになり、思想が思想自体を苦しめることになるという矛盾が明かされていた。
そのことを踏まえて『おとうと』を観ると、姉と弟の深い絆が描かれているというだけでは済まない問題が提起されているように感じる。
この作品は1960年の市川崑監督の『おとうと』へのオマージュである。市川崑監督作品において岸惠子が演じた姉も川口浩が演じた弟もまだ20代、10代と若く、兄弟喧嘩が激しくなることは理解できるが、山田洋次監督の『おとうと』において咳が止まらない弟の丹野鉄郎の顔色が明らかに悪いことが分かっているにもかかわらず、姉の高野吟子が弟に絶縁を宣言するシーンはもうお互いにいい年であることを勘案すると尋常ではない雰囲気を感じた。それは演出に問題があるということではなく、それほど高野吟子が弟に対して許せないことがあったということである。
ではその許せないこととは何なのか? その前に高野吟子の娘の高野小春が夫の冷淡さのために離婚して家に戻っていた。その上に丹野鉄郎の付き合っていた女性に対する弟の侮辱的な発言が重なって姉の怒りが爆発したのである。
丹野鉄郎と車寅次郎が似ているということはよく指摘されることである。それは気さくで風変わりな三枚目という点であるのだが、それ以上に2人が似ているところは女性に対する無理解である。
『男はつらいよ』のシリーズを通して車寅次郎のユーモラスさはこの女性に対する無理解から生まれたものであったが、車寅次郎がいなくなった今、女性に対する無理解は許されないことになったのである。むしろ女性に対する無理解が許されなくなってきたから車寅次郎はいなくなったと言った方が正確なのかもしれない。
女性に対する無理解が許されなくなるとどのようになるのか? 私たちはユーモアを失うのである。ラストで丹野鉄郎をあれほど嫌っていた高野絹代が小春の再婚の結婚式に鉄郎を招待したがるが、私たちはすでに‘ユーモア’を喪失してしまったのであり、万が一ユーモアを見つけたとしてもそこには必ず‘暴力’が隠蔽されているはずである。
2月2日にフジテレビで放送された『人志松本の○○な話』において松本人志が
「いぬのおまわりさん」の歌の歌詞について話をしていた。結局松本人志が何を
言いたかったのかよく分からなかったが、確かにこの歌の歌詞は不思議ではある。
迷子になっている“こねこちゃん”が「ニャン ニャン ニャン ニャン」と泣いている
ことは理解できても、犬のおまわりさんが困った挙句に「ワン ワン ワン ワン」と
吠えている理由がよく分からない。しかし文脈から判断するならば犬のおまわりさん
も手立てが無くて泣いているはずなのであるが、「ワン ワン ワン ワン」が泣き声
に聞こえないどころかむしろ“逆ギレ”の様相を呈してしまっているところにいぬの
おまわりさんの悲劇がある。
かいじゅうたちのいるところ
2009年/アメリカ
理想の衝突から生じる‘かいじゅうたち’
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
この作品が不運である理由は絵本を原作としているのだから、当然映画も子供のためのものであると早合点された末に鑑賞した子供たちから「つまらない」と言われてしまうことにある。しかしこの作品は子供のためのものとは言えない。そもそもあのスパイク・ジョーンズ監督が‘普通’の作品を撮るわけがないのだから。
確かにこの作品を‘かいじゅうたちのいるところ’というタイトルの作品として観るのならばあまり面白くはならないが、原題‘Where The Wild Things Are’を‘乱暴な物事のあるところ’と解釈して観るならばそれまで見えていなかったものが見えてくるだろう。
主人公のマックスは父親が不在の家庭で過ごしているが、姉にも母親にも相手にされずに寂しい思いをしている。マックスには心の中には理想の家庭像があるのだが、それが現実とならないためについに怒りが爆発して母親と大喧嘩をして家を飛び出してしまう。
海を渡ってある島にたどり着いたマックスはかいじゅうたちに出会う。キャロルを初め、7匹のかいじゅうたちは自分たちの生活環境に満足していない。そこでマックスは自分は魔法の力を持つ王様だと嘘をついて自分が持っていた理想的な‘家族’を築くことにする。しかし彼らが一緒に眠らなかったことに怒ったキャロルはマックスが本当の王様ではないことを知り、ダグラスの腕を引きちぎったりマックスを追い回したりして大暴れする。K.W.に救われたマックスは島を離れて家に帰ることにする。マックスはキャロルを探すが見つからず、最後にようやく会える。家に戻ったマックスは母親に迎えられてテーブルを囲んで食事をする。
明らかにキャロルはマックスの分身として描かれており、マックスも理想とする家の模型を作っていたキャロルが自分に似ていることは分かっている。だからマックスは自分が王様になれば上手く理想が実現できると考えた。しかし‘乱暴な物事(The wild things)’はいつもマックスが予想しないところから突然現れることをキャロル(=マックス自身)を通して知ることになる。つまりマックスは自分だけではなく誰でも理想を描いているけれども、良かれと思ってすることでさえ上手くいかないために‘The wild things=癇癪’を起こしてしまうことが分かり、誰でも‘The wild things’を持っていることを知るのである。勿論マックスは自分の母親も母親なりの理想を持っていてくれていたからこそ癇癪を起こしたことを理解したから家に帰ったのである。‘The wild things’は愛の裏返しなのではあるが、自分自身に対しても相手に対してもこれを抑えることはかなりのテクニックを必要とすることをマックスは学ぶ。
確かに子供には難しい話であるし、映像はまるで70年代頃に制作されたカルト映画の雰囲気であるが、子供にこの作品のどこが面白いのか訊かれた時に絵本の物語を説明してあげるように説明してあげるのが親の務めであると思う。