外人部隊(1933)
1933年/フランス
‘大いなる遊び’
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
ジャック・フェデール監督の『外人部隊(Le Grand Jeu)』は1935年に日本で公開されてその年のキネマ旬報ベストテン外国映画2位になっているにもかかわらず、いまだに物語が正確に把握されていないようである。まずはこの作品の物語の粗筋を引用してみる。
「人生につまずき、絶望した人々の集まる外人部隊 - ピエールもそういう中の一人だった。彼は巴里でフローランスという女に夢中になり、多額の借金を重ねた上、女にも振られ、海を渡ってモロッコへ流れてきたのである。そこで彼は、人種も国籍も問わない流れ者の吹きだまり、外人部隊に身を投じた。町にはブランシュの経営する酒場がはやっており、ピエールはそこで、別れてきた女フローランスと瓜二つのイルマと出会うのである。すべての過去をすててモロッコくんだりまで流れてきたピエールだったが、イルマを知っては、やはり巴里への懐かしさに堪えられなかった。顔こそ瓜二つだが、イルマは白痴のように、なんでも彼のいいなりになった。ピエールは激しくイルマを愛し、彼女にからんできたブランシュの良人クレマンを殺す破目になった。だが、ブランシュのはからいで、からくも罪には問われずにすんだ。
ブランシュは一体なにを考えている女なのか、いつもだるそうに足を引きずって歩き、大股をひろげて椅子にかけると(それは暑いからだ)トランプの独り占いをする。無表情に。しかしそれはよく当たるのである。ことに外人部隊が討伐に出かけたりする時には、死人の数までピタリといい当てるのだ。
ピエールの許へ、伯父に遺産が入ったという報らせがくる。彼はイルマをつれて巴里へ帰ろうとした前の日、忘れられない巴里の女フローランス本人とばったり再会したのである。ピエールの心は燃えた。しかしフローランスは相変らず冷たかった。こんな女のために一生を棒に振った自分がうとましかった。ピエールにとって、この女の身代わりでしかなかったイルマへの愛も、いまは消えてしまった。彼はもう巴里も遺産も要らなかった。イルマにはあるだけの金を与え、一人巴里へたたせてやり、自分はもう一度外人部隊へ再入隊した。土匪討伐に出発する朝、酒場のブランシュはトランプ占いをしてくれた。カードはスペイドの1“死”と出た。ブランシュはしかし無表情に、何もいわない。ピエールの部隊は砂漠の奥へ消えていった。(P.211 - P.212)」(『戦前編 世界映画名作全史』 猪俣勝人著 現代教養文庫 1974.11.30)。
他に私が確認できたジャック・フェデール監督の『外人部隊』に関する著書は以下の通りであるが、
『洋画ベスト150』 文藝春秋編 文春文庫 1988.7.10
『外国映画ベスト200』 NHK & JSB衛星映画マラソン365共同事務局編 角川文庫 1990.8.10
『映画狂人シネマ事典』 蓮実重彦著 河出書房新社 2001.10.30
『外国映画ぼくの500本』 双葉十三郎著 文春新書 2003.4.20
『古き良き時代の外国映画』 古典映画研究会 文芸社 2006.2.15
物語に具体的に言及しているものは他には見当たらなかった。
“死”を表すのはダイヤの9の隣にスペードの9が来た時だが、それはともかくここで問題となるのはラストシーンである。何故誰もピエールが一度占いをしてもらっているにもかかわらずラストシーンでもう一度占ってもらっていることに疑問を抱かないのであろうか? 最初の占いでピエールは怪我か病気はしても死ぬことはないとブランシュに言われているために、フローランスの面影の呪縛から解き放たれたピエールは再入隊することにしたはずなのである。ここで見逃せないシーンはピエールの友人で戦死したニコラの遺品をブランシュがピエールとイルマと一緒に整理しているところである。ピエールには私生活のことを喋らなかったニコラがブランシュには語っていたことが明かされている。
ピエールが再入隊するシーンとラストの酒場のシーンは巧妙にモンタージュされており、見間違えてしまうのは仕方がないのであるが、ラストシーンでブランシュに占ってもらっている男はピエールではなくてニコラなのである。ピエールがフローランスとイルマを見間違えたように、私たちはピエールとニコラを見間違えているのである。巧みなモンタージュによってブランシュの占いとは裏腹のピエールの死を暗示させているようにも見えるが、いずれにしてもこれはジャック・フェデール監督の‘大いなる遊び(Le Grand Jeu)’だと思う。
次世代スパコン、収容施設がほぼ完成(読売新聞) - goo ニュース
世界最速の計算能力を目指していた文部科学省の次世代スーパーコンピューター
計画が、行政刷新会議の「事業仕分け」で民主党の蓮舫議員が「世界一を目指す
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対して利根川進が「“世界1である必要はない”と語った人(=蓮舫)がいるが、1位を
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決定してしまった。今から思えば蓮舫議員の質問の仕方が悪かったように感じる。
「2位ではだめなのですか」という質問自体に順位に拘っている未練が感じられる
からである。理研の渡辺貞・プロジェクトリーダーは「技術開発は世界一を目指す
からこそ、意味がある」と胸を張って言っているようだが、技術開発し過ぎた日本の
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されてこそ価値が宿るはずなのである。