わが母の記
2012年/日本
高まる名声と薄れる記憶の接点
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
‘暴君’とは言わないが、売れっ子作家である小説家の伊上洪作は、事務所も兼ねた東京の自宅で、妻の美津や長女の郁子や二女の紀子に、伊上の大量の新作小説に検印を捺させている。そんな家族をよそに三女の琴子は家族と一緒に夕食もとらずに自室にこもって写真撮影に夢中になっている。言うことを聞かない琴子に父親の洪作は怒りを爆発させるのではあるが、感受性の高い紀子に対する配慮は忘れない。
洪作には忘れられない苦い想い出があった。自分が幼い頃に母親の八重が3人の兄弟の内、自分1人だけを曾祖父の妾だったおぬいに預けたことで、洪作は自分は母親に捨てられたと思っており、なかなか解消出来ないその恨みが家族に対する苛立ちとなって表れてしまうのである。作家としての名声を得るに従い、苛立ちが酷くなる洪作と、痴呆症が進行するに従い言動がおかしくなってくる八重。理由は対照的でありながら母親と息子の行動が似てしまうところが面白い。
息子が目の前にいることにも気がつかずに息子を奪われたと愚痴をこぼしている八重に洪作が「息子さんを郷里に置き去りにしたんですよね」と問いつめた際に、八重は洪作が最初に書いた詩を暗誦し、その詩が書かれた紙を取り出す。それは洪作が書いたものだった。後に、子孫を確実に残すためには子供3人が一緒にいては危険であるために、敢えて反骨精神で1人でも生きていけそうな洪作だけを家族から離したことを洪作は知ることになる。もちろん八重は、予想通りに洪作が出世したことをほくそ笑みながら、そのような秘密を墓場まで持っていくつもりでいたのであろうが、まさか自分が痴呆症に罹患するとは想像していなかっただろう。私は洪作よりも八重の記憶の薄れによる‘失態’に同情してしまうのである。
紀子が『処女の泉』(イングマル・ベルイマン監督 日本公開1961年)を観ることが出来なかったと父親を詰るところは、『処女の泉』が、陵辱後に命を奪われた少女の父親による復讐を描いた作品であり、それを父親のせいで観ることが出来なかったということは、(その時点では)洪作が紀子を助けてくれないという暗示となり、八重が自分に対する家族の扱いを、暗に小津安二郎の『東京物語』(1953年)の老夫婦に例えたことと同様に上手いと思う。
友達との飲み会には行ける、海外旅行には行けるけど・・・会社には行けないという心の症状があるらしい(TOP BRAIN) - goo ニュース
「友達との飲み会には行けて、海外旅行にも行けるけれど、会社には行けない」という心の
症状を、取り上げたNHKスペシャルでは“新型うつ”と名づけたようであるが、好きなことは
出来るのに、嫌なことは出来ないという“症状”は“新型うつ”というよりも寧ろ“元祖うつ”
だと思う。「『病気を治して、1日でも早く元気に復帰して欲しい』ことを願うからこそ、頑張れる
訳で、治療専念していない姿を見れば、『俺達は会社を休んで遊ばせる為に働いてる訳
じゃない』」という意見はごもっともではあるのだが、飲み会や海外旅行に行くことで次第に
うつの症状が軽くなってくるという場合も無いことは無いのだから難しい問題である。