特集:ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク ドイツ三部作
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永遠の‘未来の音楽’
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
『ルートヴィヒ2世のためのレクイエム』(1972年)は場面のほとんどが書き割りのセットを背景にバイエルン国王であるルートヴィヒ2世の‘芝居’が展開される。男性たちの動きは全体的に鈍く、国王と女性たちとカメラマンのアルベルトの動きだけはしっかりしている。書き割りのセット以外のシーンは、青味を帯びたブルーバックによる雪道の中を馬車に乗っている国王と、召使や医師などが茶褐色のフィルム内で国王に関して独白をするくらいである。リヒャルト・ヴァーグナーのパトロンである国王は、ヴァーグナーの死にショックを受けて、机にうつ伏しているのであるが、その背後は城に集う現代の観光客たちの様子が映し出されている。ラストは国王がギロチンにかけられ、見るからに模型である事が分かる国王の生首が掲げられた後に、再び首と胴体が繋がった国王がヨーデルを奏で、「R..I..P.」で終わる奇妙さで、ある程度歴史が分かっていなければ話についていけない。本作に俳優として出演しているダニエル・シュミットが同年に衣鉢を継ぐような『今宵かぎりは…』で監督デビューしている。
『カール・マイ』(1974年)はドイツの冒険小説家であるカール・マイを主人公としたものである。冒頭で子供たちを集めてカールが冒険談を語っているのであるが、本当に冒険をしているのかどうか疑いを持たれてしまう。そもそも馬車を使って22年連れ添っている妻のエマと秘書のクララを引き連れて旅立つシーンはあるのだが、‘冒険先’が描かれず、メインとなる出来事はカールが執筆した、ネイティヴ・アメリカンと白人の友情を描いた『ウィネトウ』が同性愛を描いたものだとして新聞社やレビウスという編集者が裁判沙汰にまでする糾弾と、カールの抵抗である。エマとの離婚後、クララに見取られて、カールは雪が降る中で永眠するのであるが、裁判所という‘ステージ’がカールに小説を書かせる原動力となったのではないかという問いが提示され、それはラストでアドルフ・ヒトラーがカールを賞賛することと関連することになるだろう。
そしてイギリスのBBCやアンリ・ラングロワまで関わっている4部作、計410分の大作『ヒトラー、あるいはドイツ映画』(1977年)において、狂気の国王であるルートヴィヒ2世と‘妄想癖’を持つ冒険小説家であるカール・マイの素質を併せ持った男であるアドルフ・ヒトラーが主役となる。
第1部「聖杯(Der Gral)」は宇宙の中心から「1」という数字が手前に向かってくるように現れ、「Der Gral」のロゴが、まるで‘聖杯’を乾杯するかのように下から上に移動する。もはや書き割りさえ十分に用意されておらず、プロジェクターやブルーバックによる背景と、マネキンが置かれている中を人形を抱えた少女が歩き回っており、人形を置いた時点から、物語が動き出すのであるが、ほとんどナレーションか1人のモノローグで他の登場人物がいてもマネキン同様に動かない。ヒトラーやナチに関する事以外は、ユダヤ系ドイツ人のエリッヒ・フォン・シュトロハイム監督作品である『グリード』(1924年)が11時間の上映時間を2時間に短縮された事や、ソ連のプロパガンダで英雄とされた少年パヴェリク・モロゾフを主人公としたユダヤ系ロシア人のセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『ベージン草原』(1937年)が未完に終わってしまった事に対する不満や、トーマス・マンなどナチスと戦い続けた作家がいる一方で、ヴァルター・ベンヤミンやシュテファン・ツヴァイクなどのユダヤ系作家が自殺に追い込まれている事を嘆いている。
第2部「ドイツの夢」は「RW(リヒャルト・ワーグナー)」の文字が刻まれた墓石の下から、何故か死んだはずのヒトラーが起き上がって「ドイツ国民が望んだ通りのことをしたまでだ」と弁明を試みる。クルト・クラウゼがヒトラーに抜擢されてから、真夜中に抜け出して一緒に過ごした‘聖夜’を語った後に、何故か宇宙について語られて終わる。
第3部「冬物語の終わり」の冒頭はハインリヒ・ヒムラーが腹回りをマッサージされている場面から始まる。戦況が良くないためもあってか占星術にのめり込んでいる様子が描かれる。ヒトラーの専属の映写技師が、1日に3本観ることもあるほどヒトラーの映画好きを語り、アメリカ映画の『白雪姫』(デイヴィッド・ハンド監督 1937年)やユダヤ系映画監督の『ニーベルンゲン』(フリッツ・ラング監督 1924年)などを挙げる。ヒトラーの母親であるクララが‘聖夜’に亡くなったことが明かされる。
第4部「われわれ、地獄の子どもたち」は当時のナチス関連の映像を背景にヒトラーに関する記録書が約45分にわたって読まれる。やがて精巧なヒトラーの人形との対話が始まる。ヒトラーは、民主的な方法で首相になり、それまで尊いものと信じられていた民主主義や指導者や忠誠などの価値観を虐殺に結びつけたことで転倒させ‘偉大’な人物と評価せざるを得ないと結論付けられる。その上、‘劇場型’ヒトラーの足跡は映画産業の活性化に役立つことが明言され、実際に最近も『ワルキューレ』(ブライアン・シンガー監督 2008年)という映画が製作されており、ジーバーベルクはそのような大量虐殺を金儲けの道具にしてしまうような‘商業主義’に抵抗するために映画撮影の伝統的な手法を放棄しているのである。
イスラエルには唯一モーシェ・ダヤンという信頼できる男がいると語られているのであるが、残念なことにモーシェ・ダヤンは1981年に心臓発作で亡くなっている。
ラストでは再び、第1部「聖杯」に登場していた少女が黒い服を着て、フィルムをリボンにして現れる。やがてリボンと黒い服を脱ぐと白無垢となり、人形を抱えて『ルートヴィヒ2世のためのレクイエム』の幼少の頃のルートヴィヒ2世のイメージに向かって歩いていく理由は、どのように考えてみても、希望よりも同じ過ちの繰り返しが含意されている。涙のイメージの中で少女は両耳をふさぎ情報を遮断することでイメージをありのままに捉えようとし、新たな祝福として「Der Gral」のロゴ再び現れるのであるが、下から上に何度も現れる度に「Der Gral」というロゴが少しずつ崩れているからである。
絶えず流れているヒトラーのアジテーションの合い間に、「ターザン」や「ローン・レンジャー」や「スーパーマン」のサウンドトラックが流れるように、本作は、古代ローマの帝国主義とイギリスの植民地主義を合わせたヒトラーの「反ユダヤ人」という壮大な芝居と、かつてのハリウッド映画の「反ネイティヴ・アメリカン」という既に忘れ去られている芝居の‘覇権争い’の考察なのであり、スーザン・ソンタグの「20世紀最高の芸術作品かつ史上最高の映画」という激賞は決して大げさなものではないのであるが、その意図的な冗長さと散漫さが、絶対にヒトラーの術中には陥らないという監督の決意を見えにくくしていることは否定できない。
とても1度観ただけでは全てを把握できない本作の詳細は、『映像の招喚 エッセ・シネマトグラフィック』(四方田犬彦著 青土社)の「ハンス=ユルゲン・ジーバーベルグ ー アドルフ・ヒトラー・スーパースター」(P.133-P.156)に譲る。
公費でボウリング大会 奈良の町村会「情報交換の場」(朝日新聞) - goo ニュース
奈良県の広陵、王寺、上牧(かんまき)、河合4町でつくる北葛城郡町村会が1970年代頃
からほぼ毎年1回、数万から十数万円の公費を投じて首長や職員が参加するスポーツ大会
を開いており、今年も上牧町のボウリング場で約2時間にわたってボウリング大会を開催し、
各町から町長や教育長ら管理職や議員、職員ら計約140人が参加し、ゲーム代や飲み物代
などの経費計10万8336円を、町村会の「調査研修費」から全額支出していた事に関して
町村会事務局長の村田孝雄・広陵町総務課長は「公費負担は、職員の保健や福利厚生に
関する計画を立てるよう定めた地方公務員法に基づくもの。職場の悩みや問題など情報
交換の場としても役立つと考えている」と話し、別に問題は無いという認識らしい。そもそも
町や村に「調査研修費」というものが必要かどうかが疑わしく、それが拡大解釈された果てに
“ボウリング大会”と化してしまう事はやむを得ないのかもしれない。平和の証という事か