フローズン・リバー
2008年/アメリカ
手作りのメリーゴーラウンド
総合
80点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
それにしても2008年のサンダンス映画祭ドラマ部門でグランプリ受賞し、第81回アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされた『フローズン・リバー』と、2010年のサンダンス映画祭ドラマ部門のグランプリを受賞し、第83回アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされた『ウィンターズ・ボーン』(デブラ・グラニク監督)は、その受賞歴のみならず、‘父親’の不在や、‘原住民’の問題などのテーマまで類似しているのであるが、『フローズン・リバー』の特異さは‘男性’のように生きることを強いられる女性が‘女性性’を取り戻すところにある。
主人公のレイ・エディは15歳のT.J.と5歳のリッキーの母親で、やがて‘相棒’となるモホーク族のライラも1歳の幼児の母親で、2人とも子どものために必死であるのだが、安定した職業に就くことができず、不法移民の密入国の手助けに手を染めてしまう。
車を走らせてお金を数えてトランクを開けてまた車を走らせるという作業の単純さが、当初は2人にあまり罪悪感を抱かせないのであるが、パキスタン人の女性の赤ん坊を誤って捨ててしまったことで、自分たちが運んでいるものは‘モノ’ではなく、自分たちと同じ‘人’であることを実感する。これを最後にしようと臨んだ仕事でピン撥ねされた際に、レイが激怒した理由はギャラの問題のみならず、密入国させる相手が2人とも女性であり、女性蔑視を感じたからであろうし、警察に追い詰められた際に、レイが自首する決心をさせた理由も、自分が夫のように、自分さえ良ければいいという男性のような考え方を放棄したためであろう。
ラストはライラが自分の幼子を連れて、母親がいなくなったT.J.とリッキーのもとを訪れてレイが戻ってくるまで一緒に住むことになる。危うくT.J.はクレジットカードによる詐欺に手を染めそうになっていたが、被害者の高齢の女性に謝罪することで許してもらう。‘男性’にならずにすんだT.J.はまだ子どものままでいられることになるのであり、女性と子どもしかいないエディ家は‘男性性’を超える新たな価値観を模索することになるだろう。それは既成の価値観ではなくて‘手作り’のはずである。
転校先で傷害容疑、家裁送致 大津いじめ自殺の同級生(朝日新聞) - goo ニュース
よくいじめ問題に関して、加害者の名前を公表すること自体もいじめになってしまうという
“正論”を見かけるが、例えば今回のようにいじめたとされる少年が、転校先で別の中学生
に対して殴るけるの暴行を加え、けがをさせ、かばんを燃やしたり、所持品を捨てたりもした
という話を聞くと、もちろん“加害者”に危害を加えることは慎むべきであるが、自分の身近に
転校してくる可能性はゼロではないのだから、自分の家族の身を守るためには氏名の公表
はやむをえないのではないだろうか。残念ながら私には今回、京都家裁へ送致された生徒
が「木村束麿呂」か「山田晃也」か「小網武里」かは分からないのではあるが。