原題:『Boy Erased』
監督:ジョエル・エドガートン
脚本:ジョエル・エドガートン
撮影:エドゥアルド・グラウ
出演:ルーカス・ヘッジズ/ニコール・キッドマン/ラッセル・クロウ/ジョエル・エドガートン
2018年/アメリカ
「わずかな友情」の尊さについて
『ビューティフル・ボーイ』(フェリックス・ヴァン・フルーニンゲン監督 2018年)や『ドント・ウォーリー』(ガス・ヴァン・サント監督 2018年)では上手く機能していたキリスト教の教えではあっても、2007年頃のアメリカでさえLGBTには厳しく、そもそも自然に身についているものを無理やり変えようとすることに無理があるのだが、主人公のジャレッド・エモンズの父親のマーシャルは車のディーラーを営む傍らでバプテスト派の牧師という立場上、息子の性癖を赦すことができずに、ジャレッドを更生施設に送ってしまう。
しかしやがてそんな父親たちの考えに反対するのはジャレッドの母親のナンシーで、要するにキリスト教の教えというものは男性原理だということである。マーシャルがジャレッドに対して誤解していることはジャレッドはゲイではあるが、友人に強姦されそうになったとしてもまだ男性経験はないということである。例えば、淫乱と言われる男性経験の無い女性を想像してみれば分かるのだが、淫乱の要素があるとしてもまだ経験はないのだから淫乱と呼ばれるのは不本意であることを、せめて両親は理解するべきなのである。
ところで原題の「消された少年(Boy Erased)」とは誰を指しているのか勘案するならば、厚生施設の主任セラピストであるヴィクター・サイクスがジャレッドを折檻しようとした際に、電話を受けて迎えに来たナンシーにジャレッドを引き渡したキャメロンではないだろうか。キャメロンが折檻を受けていた時に唯一キャメロンの肩に手をあてて慰めたのがジャレッドで、二人の友情はそれだけなのであるが、そのわずかな友情こそが尊い理由は、その後、キャメロンは自殺したことにされたが、実際はサイクスたちに殺されたはずだからである。