ロビン・フッド
2010年/アメリカ=イギリス
致命的な‘記憶喪失’
総合
40点
ストーリー
0点
キャスト
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演出
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ビジュアル
0点
音楽
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中世の吟遊詩人が生んだ伝説の義賊、ロビン・フッドが庶民のヒーローとして誕生するまでの物語らしいのであるが、私にはストーリーが上手く把握できなかった。
冒頭からそれまで一緒に戦っていたリチャード王と仲違いしてしまうところは‘アウトロー’の面目躍如といえるし、瀕死のイングランドの騎士ロバート・ロクスリーから王冠と剣を託されたロビンは、実は金銭目的で、ロクスリーの父でノッティンガムの領主であるウォルターに剣を届けるところまでは良かったのであるが、ロビンが幼い頃の記憶を失っているという展開になって話がおかしくなってくる。ロビンの父親が万人の平等な権利を求める‘自由憲章’を創案した人物で、それが原因で殺されたということは分かっても、何故ロビンがそのような記憶を失ってしまったのかが描かれていない。そのような、ロビンの人間形成にとって大切な記憶が失われているということは、それなりの深刻な問題がロビンと父親の間に起こったはずなのである。その問題次第で‘アウトロー’であるロビンが父親の意志を継ぐか、あるいは父親の意思に逆らうか決まるからであり、それが明らかにされない限り、その後のロビンは‘紋切り型のヒーロー’にならざるを得ない。
リドリー・スコット監督はこのようなスペクタクルな映像の作り方は相変わらず上手い。しかし物語の核心が‘空虚’であるためにストーリーが空回りするだけで、何の感動ももたらさないはずなのであるが、何故誰もそこを作品の欠陥として指摘しないのか不思議である。
海老蔵事件 元リーダー代理人会見中止(日刊スポーツ) - goo ニュース
元リーダー代理人の会見が中止となった理由は、やはり市川海老蔵が殴ったという
証拠があり、7日の記者会見で「自分は全面的な被害者だ」と断言してしまった事で
辻褄が合わなくなったために、海老蔵のみならず角界と同じように歌舞伎界自体の
印象が悪くなる事を避けるために金銭で解決を図ろうと海老蔵側が歩み寄ってきた
ということが考えられる。私が驚いたことは16日のフジテレビの「笑っていいとも!」
のテレフォンショッキングのゲストで出演していた坂口憲二にフジのアナウンサーの
武田祐子が“イマツブ”に寄せられた質問として、「人に言えないお酒による失敗は
ありますか?」というものを選んだことである。武田祐子が選んだのかディレクター
が選んだのか分らないが、確かフジテレビは“市川海老蔵派”であるはずだから、
フジテレビ内でも“反海老蔵派”が存在するのかと思って、非常に興味深かった。
特集:ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2009
-年/-
‘反戦映画’再考
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
ダニエル・ユイレ亡き後のジャン=マリー・ストローブの作風が感傷的過ぎるという意見は一理あるとは言え、だからと言ってストローブ監督の作品の質が落ちたわけではなく、そもそも‘ストローブ=ユイレ’作品の質の善し悪しは監督以上に観客に委ねられているはずなのである。
現時点で観ることができるストローブ監督の2009年の最新作『魔女ー女だけで』にしても『おお至高の光』にしても、相変わらずのミニマルかつ厳密に計算され尽くしたカメラワークを見せるのであるが、ここでは『コルネイユ=ブレヒト(Corneille - Brecht)』に関して感想を記しておきたい。
『コルネイユ=ブレヒト』は「ローマ、私が恨む唯一のもの」という副題を持ち、コルネリア・ガイサーが最初にベランダに立ってコルネイユの「オラース」第4幕第5場と「オトン」の短い一節を読んだ後に、室内でブレヒトのラジオ劇「ルクルスの審問」を読む。上映時間26分の作品が、テキストはそのままヴァージョンを変えて3回続けて上映される。
コルネイユの作品において、アウグストゥス、ティべリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロというローマ帝国の5人の皇帝の名前が挙げられて、ローマを没落させた元凶として非難される。ブレヒトの作品においてはローマの将軍であったルクルスが死後に審判を受ける様子が描かれている。ルクルスはラカレスと名前を読み間違えられたり、53の都市を得た自分のローマにおける功績を証明してもらうためにマケドニアのアレクサンダー大王を証人として呼んでもらおうとするのであるが、死後においては名声などは何の意味もなさないために、アレクサンダーの所在も分らない。事実、ルクルスを審問する人たちも高級娼婦、パン屋、魚売りの女、農夫、料理番など肩書だけで名前が無い。ルクルスはフリーズ(浮彫りの石碑)で自分の実績を証明しようとする。
魚売りの女はファーベルという名前の自分の息子を探しているのであるが、そこの門番にファーブルという名前の男はたくさんいると言われる。更に門番に、軍隊の隊列に加わる時には役に立った名前でも軍隊に入れば必要としなくなり、母親が息子を戦争に委ねた後は息子たちは母親たちに会いたいという気持ちを無くしてしまうと言われてしまった魚売りの女は、ファーブルを探すことを止めてしまう。
善し悪しは別にしてもローマ皇帝たちの名前はいまだに現代の人々に口にされるにも関わらず、ローマの将軍辺りから名前があやふやになり、市井の人々に至っては全く名前が分からなくなり、憎悪のみならず愛情も見失ってしまうという、コルネイユとブレヒトのテキストの繋げ方が絶妙である。
『コルネイユ=ブレヒト』を一度観ただけでは一人で複数の人物のダイアローグを語っているために上手く物語を把握することは難しいが、二度、三度と同じテキストを聞かされると語り方の違いでキャラクターが分かるようになる。つまり‘同じ’テキストの‘違い’が分かるのであり、いつものようにテキストの選択も、それに見合った演出も正に‘奇跡’としか言いようがない。
『コルネイユ=ブレヒト』も『レバノン』(サミュエル・マオス監督)も2009年の‘反戦映画’である。その地味さと派手さは歴然としているのであるが、どちらが人々の胸を打つのかというならば、やはり‘真実’を映し出している『レバノン』という現実は私にはどうしようもない。
ヤマダ電機、満足度ランク最下位訴訟で敗訴(読売新聞) - goo ニュース
自身の女性問題や賭けゴルフに関する週刊誌記事で名誉を傷つけられたとして
新潮社を訴えたものの、逆に裁判所から記事の信憑性は高いという“御墨付”を
賜ってしまったのは民主党の横峯良郎参議院議員であったが、ヤマダ電気も同じ
ような辛酸を嘗めることになった。最初からアンケートの結果を真摯に受け止めて
アフターサービスの向上に努めるというコメントを出しておけば、逆にイメージの
向上に繋がったはずなのに、このように裁判が泥沼化してしまうと、却って印象が
悪くなってしまう。「日経ビジネス」は他の週刊誌と違って経済の専門誌なのだから、
このようなアンケートで情報操作などするわけがない。もしもそんなことが発覚
してしまったら即廃刊になってしまうのだから。私は個人的にヤマダ電気を利用した
ことは一度もないから別にどうでもいいのだけれど。
レバノン
2009年/イスラエル=フランス=イギリス
本音を言ってはいけない作品について
総合
20点
ストーリー
50点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
冒頭とラストの向日葵畑のシーンは1970年に公開された反戦映画『ひまわり(I Girasoli)』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)の‘オマージュ’だそうである。確かに美しいシーンではあったが、その2つのシーンに挟まれた物語自体はとても解りにくいものであった。
1982年6月6日、まだ陽が昇らない夜中に4人の、おそらくまだ実戦経験がないであろう若者が、初めて空爆後のレバノンに‘整理班’として向かう。戦車の中のみで繰り広げられる‘密室劇’は最初の方は面白く思えたのであるが、4人の若者たちのそれぞれの背景や関係がほとんど描かれていないために、キャラクターがはっきりしない。以前『クロース・トゥ・ホーム(Close To Home)』(ダリア・ハゲル、ヴィディ・ヒル共同監督 2005年)という佳作のイスラエル映画を見て、イスラエルでは女性にも兵役義務があることを知って驚いたのであるが、それならば何故それなりの訓練を受けているはずの4人の若者たちがこれほど意思疎通ができていないまま現地に派兵されているのか理解に苦しむ。
戦車のスコープ越しの映像は『ターミネーター』を彷彿とさせる。つまりストーリー展開としては最初はそのような‘ゲーム感覚’で砲撃してしかるべきところを、ド素人ではあるまい砲撃手のシムリックが初陣であるにもかかわらず砲撃することに恐怖を感じていることは不自然である。それほど砲撃に恐怖心を持っているのであるならば、最初から砲撃手として選ばれないはずなのだ。
要するに4人の新人の戦車兵たちは最初から戦争に対して‘賢過ぎる’ために、だんだんと戦うことに恐れをなすような物語の‘うねり’も、戦うことに対する葛藤も無く、これ見よがしの惨状を観客に見せつけるだけである。
ところが驚いたことにこのような凡作が2009年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞してしまっているのである。『戦場でワルツを』(アリ・フォルマン監督 2008年)という、これも凡作としか言いようがないイスラエル映画がゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞した時も驚いたのであるが、作品外の政治的な理由がないのだとするならば、よほど他のノミネートされた作品が酷かったのだろうと納得するしかない。
政党交付金でさくらさんのゴルフ同行 横峯議員が17回(朝日新聞) - goo ニュース
賭けゴルフ訴訟で横峯氏敗訴 「記事は真実」と東京地裁(共同通信) - goo ニュース
菅首相「今までは仮免許」「いよいよ本免許」(朝日新聞) - goo ニュース
仙谷氏「沖縄は基地を甘受して」 地元反発、翌日に撤回(朝日新聞) - goo ニュース
先日、名誉毀損などで新潮社を訴えたものの、逆に裁判所によって記事の正当性
が証明されてしまった横峯良郎民主党参議院議員は相変わらず恥ずかし気もなく
バカを丸出しにしたまま“政治活動”という名目で税金を私物化し続けている。横峯
が2007年に参議院選挙で当選して以来、委員会などで質問に立った姿など一度
たりとも見かけたことはなく、一体国会議員としてどのような活動をしているのか
全く見えてこないのであるが、これほどのバカでも偉そうに国会議員としてのさばって
いられる理由は、それに負けないほどのバカっぷりを首相と官房長官が率先して
演じてしまっているからである。それにしても21万票を獲得して横峯は当選した
らしいのだが、何の実績もないこの男に誰が投票したのか未だに謎のままである。
『ノルウェイの森』のテレビスポットで脳科学者の茂木健一郎が「『ノルウェイの森』
はものすごくリアルに愛を描いていくことによって、我々を癒してくれる、そういう作品
であり、映画ではないかと思うんですね。」とコメントしていた。本当にこの作品を
見て茂木がコメントしているのだとするならば、頓珍漢も甚だしいだろう。
この作品が描くような“リアルな愛”が観客を癒すようなことは絶対にありえない。
実際に松山ケンイチが演じている主人公のワタナベは2人の女性に振り回され
続けて最後には自分がどこにいるのか分からなくなってしまっている。どうして
こんな作品で“癒し”などという言葉が使われるのか根拠が分らない。万が一“癒し”
という言葉を使えば女性が直ぐに反応して見に来るだろうという安易な考えで
言ったのであるならば、茂木は最早納税に関してのみならず、物事全てに関して
脳機能を停止させてしまっていると言わざるを得ない。
武士の家計簿
2010年/日本
‘そろばんずく’とはいかない理由
総合
70点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
『武士の家計簿』は決して出来の悪い作品ではないのであるが、森田芳光が監督を務めているとなるとどうしてもレベルの高い演出を求めてしまう。
例えば主人公の猪山直之の息子の直吉がが4歳になり、着袴の儀で嫡男を武士として内外にお披露目する祝いの日の席で祝膳に絵に描いた鯛でもてなすというシーンがある。暫くの間、静まり返った室内を撮した後に突然直吉が嬉々として「鯛じゃ鯛じゃ!」とはしゃぐまでの‘間’が不自然ではないだろうか?
全体的にカット数が少ないことも気になった。例えば猪山家の借金返済のために父親の信之が将軍家より輿入れされた溶姫から賜った茶壷の売値を巡って借金取りと算盤を介する‘格闘’においては、2人の指が一つの算盤の玉を自分の都合の良い方に押し合うアップが挿入されていた方が分かり易かったと思うが、そのような細かいカット割りがあまり無いためにストーリー自体は面白いにも関わらずコメディとしての盛り上がりに欠けてしまっている。
私が気がついた唯一の細かいカット割は、猪山直之が息子の直吉を殴るシーンだけだった。おそらく監督の意図としては、敢えてそこだけ細かいカット割りを仕込むことで親子の絆を観客に印象付けたかったのだと思うが、コメディの要素を犠牲にするほど効果的だったとは思えない。
倹約生活を余儀なくされる武士の時代と物が溢れている現代が‘家財整理’という点でリンクしてしまうという皮肉が効いていて面白いのであるが、直吉が登場するシーンがどれも煮え切らないという印象が残った。
「M―1」今年で終了…笑い飯“有終の美”誓う(スポーツニッポン) - goo ニュース
若手漫才日本一決定戦「M―1グランプリ」が、10回目の今年の大会で終了する
ことになった理由は、漫才のレベルが上がったというよりも、大衆が求める笑いの
最終形態が漫才ではなくなったという要素が大きいと思う。現に近年のMー1の
優勝者であるNON STYLEやパンクブーブーなどのその後の不振振りは深刻な
もので、むしろNON STYLEによって優勝を阻止されたオードリーや去年は9位
だったハリセンボンの方がキャラの際立ちで活躍している。何よりも9年も連続出場
していて、露出度に関していうならばダントツの一位であるはずの笑い飯が全く
パットしないのは漫才というジャンルにとっては深刻な問題だと思うが、本音を言う
ならば島田紳助自身も、もっと稼げるジャンルを見つけてしまったのだからもう漫才
に興味を失ってしまったのだと思う。
ノルウェイの森
2010年/日本
‘共感’と‘誠実’の葛藤
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
物語の設定である1969年といえば日本のみならず、世界中で学生運動が吹き荒れていた。まるで自分たちの世代の人数の圧倒的優位さを利用するならば他の世代の言動など簡単に弾圧できるだろうという安易な考えは、ついには「われわれは明日のジョーである」という声明文を出してハイジャックをして隣国まで行ってしまった‘徒花’まで生み出したのであるが、そのような能天気な学生たちを無視したまま、ワタナベはたまたま同じ学生寮に住む先輩の永沢と、なんとなく成り行きでナンパに明け暮れている。
ワタナベの高校時代の同級生であり、親友だったキズキが自殺した理由は明かされない。ワタナベにさえその理由は分らない。
たまたまワタナベはキズキの恋人だった直子と遭遇し、付き合うようになる。ワタナベとは一度だけ寝ることになるが、その後は上手くいかない。しかし直子はあれほど好きだったキズキとは一度も寝たことがなかった。どうしてそのように身体と心が一致しないのか直子は悩み過ぎて療養を余儀なくされる。
そんな時ワタナベは同じ授業を取っていた小林緑に声をかけられる。お互いに恋人がいたのであるがワタナベは緑とも成り行きで付き合うことになる。
ワタナベの献身さは叶わないまま結局、直子は自殺してしまう。その後直子と同じ療養所にいたレイコがワタナベを訪ねてきて、彼女の求めに応じてベッドを共にする。
レイコを見送った後にワタナベは緑に電話をする。緑に、何処にいるのかと居場所を尋ねられたワタナベは自分の‘居場所’が分らない。偶然に起こる運命のイタズラに対しては誰も抵抗のしようがなく、それに完全に巻き込まれてしまい、全く人生の計算が立たないワタナベはただ途方に暮れるのみである。
ワタナベは学生運動をする学生たちのように他者と‘共感’出来ることを信じていない。親友だったキズキが死んだ理由さえ分からなかったのだから、親友でもない人たちの気持ちなど分かるはずがない。ワタナベが出来ることはただ目の前に存在する人たちの要求にできるだけ応えることだけであるために、傍から見れば信念に欠けた優柔不断な男にしか見えないが、‘信念’を持って学生運動に身を投じた学生たちのその後の惨状を見るならば、‘共感’できないことは分かっていても、運命によって与えられたその場をなんとかして遣り繰りしようとするワタナベの方こそ誠実ではないのだろうか? そのような物語の性格上、まるで昔の‘ATG’作品のように本作自体も観客の共感を拒絶するのであるが、それこそ傑作であるという何よりの証拠であろう。
CANというドイツのロックバンドの楽曲の使い方のセンスも素晴らしく、ワタナベとCANのヴォーカルで、楽譜もリハーサルも無くその場に合わせた即興的歌唱法を得意とするダモ鈴木のイメージをリンクさせる意図があるとするのならば驚くべき演出だと思う。
「週間新潮」(12月30日・1月6日新年特大号 P.142-P.143)において評論家の福田和也氏が「世間の値打ち」というコラムで本作を取り上げているので一部引用してみる。
「『(・・・)長回しも多くて、なかなか刺激的ではある。施設に入った直子を、ワタナベが訪れた時、早足で丘を往復しながら、二人が ー 直子が引っ張る形で ー 対話するシーンがあるんだけれど、これは凄い。高低のある丘をかなりの速さで行き来しながら、どんどん直子のテンションが上がってくる。でも、カメラの水平は動かない。レールを敷いているのかな?と思って見ていると、その水平を保ったまま、カメラアイは画面奥へと入ってゆく。あれどうやって撮ったのかね。理屈で考えるとレールじゃなくて、クレーンか何かなんだろうけれど、演出と一体になってはじめて出来る撮影ではある』『うーむ。でも、激しい勢いで歩きながら、対話する直子とワタナベというのは、ちょっとイメージにそぐわない、かと』『緑もまた、ワタナベを自宅に招いた時に、二階をぐるぐる歩き回りながら会話するわけ。これも、面白い演出ではあるね。面食らうけれど、刺激的なのはたしか。でも、どうなんだろう。こういう演出は、観客の注意を引きはするけれども、説得力があるんだろうか。直子との場面は緊迫感があるけど、緑のところは、ちょっと。女優の滑舌も、監督の指示なのかもしれないけど、なんかワザとらしい』(・・・)」
このように評価した上で福田氏は「監督自身による肝心の脚本がその体をなしておらず39点」としている。
福田氏は直子や緑が歩き回るシーンを監督がただ奇を衒ったもののように見倣しているが、既に書いたように歩き回る彼女たちの後を必死になって追いかけるワタナベの描写には、ワタナベが翻弄されているという明確な演出意図があるわけで、この作品の根本に関わる演出意図が見抜けない人にはこの作品を評する能力も資格もないと断定せざるを得ない。因みに直子とワタナベが丘を往復するシーンには多くのレールが使われたということを菊池凛子が「笑っていいとも!」で証言していた。