MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『SING/シング』

2017-03-21 00:28:37 | goo映画レビュー

原題:『Sing』
監督:ガース・ジェニングス
脚本:ガース・ジェニングス
出演:マシュー・マコノヒー/セス・マクファーレン/リース・ウィザースプーン/スカーレット・ヨハンソン
2016年/アメリカ

ストーリーを導くポスターについて

 タイトル通りに本作の見どころは名曲を聞かせるところではあるのだが、「水」のリアリティーには本当に驚いた。
 ストーリーは想像の域を超えず悪くはないが、驚くような捻りもないのだが、主人公のバスター・ムーンの事務所に前半は『War of Attrition(消耗戦)』というポスターが掲げられ、後半はSF映画のポスターのような『We are All Alone!(僕たちは一人ぼっちだ!)』が掲げられており、タイトルの意味がストーリーの流れに沿っていることだけは指摘しておきたい。
 マイクが歌う「マイ・ウェイ」の字幕翻訳に中島潤の訳詞がそのまま使われていたことには笑ってしまったが、シーンと合っていなくはなかったと思う。そんな中で、ジョニーが歌ったエルトン・ジョン(Elton John)の「I'm Still Standing」の訳詞には違和感を持った。とりあえず和訳を試みてみたい。

「I'm Still Standing」Elton John 日本語訳

どのような状況なのか君には分かりようがない
君に流れる血は冬の氷点下で生じた氷のようだし
君が発する光は冷たく物悲しい
君は残骸のように落ちぶれて
使っている仮面を背後に隠す

この愚か者が勝つことなど絶対にありえないと思っていただろう?
俺を見てくれよ
また復活してきたんだ
俺は簡単な方法で愛を味わってみたんだ
俺がまだ耐えている間にもしも君が知る必要があるのなら
君は立ち去るしかない

俺が今まで以上に上手くまだ堪えていることが君には分からなのか?
嘘偽りのない生存者のように見えるだろうし
小さな子供のような気分だ
結局今回は俺はまだ堪えている
君のいない俺の人生のピースをかき集めて組み合わせようと思っている

俺はまだ堪えている
俺はまだ耐えている

俺が勝てる見込みが全くなくなってから
君は外に飛び出して俺をまた置き去りにする
君がした脅しはどれも俺を打ちのめすことは間違いなかった
もしも俺たちの愛がただの見世物のようなものだったならば
今の君こそ道化師なんだ

俺が今まで以上に上手くまだ堪えていることが君には分からなのか?
嘘偽りのない生存者のように見えるだろうし
小さな子供のような気分だ
結局今回は俺はまだ堪えている
君のいない俺の人生のピースをかき集めて組み合わせようと思っている

俺はまだ堪えている
俺はまだ耐えている

俺が今まで以上に上手くまだ堪えていることが君には分からなのか?
嘘偽りのない生存者のように見えるだろうし
小さな子供のような気分だ
結局今回は俺はまだ堪えている
君のいない俺の人生のピースをかき集めて組み合わせようと思っている

俺はまだ堪えている
俺はまだ耐えている

俺はまだ堪えている
俺はまだ耐えている

俺はまだ堪えている
俺はまだ耐えている

 タイトルの「I'm Still Standing」を「俺はまだ立っている」と捉えると状況がよく分からなくなる。ここでは通常は否定文で使われる「我慢する」や「辛抱する」という意味で敢えて詩的に使っていると捉えるべきだと思う。

Elton John - I'm Still Standing (Million Dollar Piano) Live ~ HD


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AKB48「シュートサイン」の深まる謎

2017-03-20 00:17:15 | 邦楽

AKB48さん『シュートサイン』の歌詞
シュートサイン
words by アキモトヤシシ
music by コンドウケイイチ
Performed by エーケービーフォーティーエイト

 3月18日のNHK-BSプレミアムの『AKB48SHОW!』で「シュートサイン」の

フルヴァージョンが披露されたが、謎の多い演出だった。32名選抜されたはずなのに19名しか

出演していないし、3列目のメンバーの振りの間違いが妙に目立つのであるが、曲が終わった後と、

その直後にアップになったセンターの小嶋陽菜の前髪が違っているということはワンテイクだけ

撮った訳ではなく、複数回テイクを撮ったはずなのだから、間違っている部分は別テイクに

置き換えるか、メンバーの顔のアップに差し替えればいいと思うのであるが、間違ったまま放送

されている理由がよく分からないのである。「祈りとは(未来か)勝つか?(それとも負けるのか?)

シュートサイン」と歌われた直後に小嶋の後ろで、しゃがもうとする小栗有衣が映るのであるが、

カメラが切り替わると小栗は全くしゃがんでおらず、つまりこの後の部分の3列目のダンスは

間違っていないという解釈になるのだが、立ちあがり方がバラバラのように見えるのは気のせい

なのだろうか(シンメトリにするためには須田亜香里と同じタイミングで立ち上がらなければ

ならない小嶋真子が隣の高橋朱里と同時に立ち上がっているためにバラバラに見えるのだと思う)。

これは間違ったメンバーの責任ではなく、これを良しとして放送したディレクターの責任である。

 例えば、ラストでセンターの小嶋陽菜の足が映し出され、新たな「ステップ」が示される。

 その後、他のメンバーが背後で同じ振付で同じ方向を見て踊る中、一番では一緒に合わせて

踊っていた卒業する小嶋陽菜だけが前を向いてアドリブを取り入れながら解放されたように自由に

踊る、それぞれの立場を表現したそのコントラストが美しいと思うのである。

 TAKAHIROの高度な振付に対応できていないということはあるのだろうが、乃木坂46や

欅坂46のようにポジションが安定して決まっているわけではなく、TAKAHIROの振付は

3列目でも容赦なく難しいからメンバーにとっては酷なのである。他の音楽番組では

明らかに音程を外していることもあって何故完全に口パクにしないのかという疑問もある。

Mステのプロレスの衣装が不評なようだが、あれは「キッチュ」として逆に良いわけであの

ヴァージョンでフルを見たかった。

 個人的には岡田奈々の意外とダイナミックなダンスは嫌いではないし、できることなら

3月12日に富士スピードウェイ50周年記念イベントで見せたチーム8のキレッキレの

「シュートサイン」のフルヴァージョンを収録してネット番組でもいいから流して欲しい。

チーム8のヴァージョンは横の移動がはっきりしていてダンスが大きく見えるのである。

と、色々と文句を言っていても乃木坂46「インフルエンサー」や欅坂46「不協和音」

よりも「シュートサイン」の方が名曲と断定してもいいくらいに良いと思っている。

更に言うなら「不協和音」よりも「誰のことを一番愛してる?」の方が良いと思う。


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「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」

2017-03-19 00:51:48 | 美術

 3月16日に放送されたNHKドキュメンタリーの「華麗なるミュシャ 祖国への旅路 パリ・プラハ 

二都物語」を見た。アルフォンス・ミュシャの「スラヴ叙事詩」の中の「スラヴ菩提樹の下で

おこなわれるオムラジナ会の誓い(The Oath of Omladina under the Slavic Linden Tree)」

(1926年)は民族の平和を願ってミュシャは描いたようであるが、ナチスドイツのチェコへの

侵入により一時は狭い独居房に収監されたようで、体調を崩したミュシャは1939年、78歳で

亡くなり、シリーズの中でこの作品だけが未完成(unfinished)に終わったそうである。

確かに今まで細かく描かれていた顔が描かれていない人物を多数見かけるのであるが、まさに

平和を願って描いた作品が未完であることが厳しい現実を物語っているように思うのである。


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『ラビング 愛という名前のふたり』

2017-03-18 00:04:02 | goo映画レビュー

原題:『Loving』
監督:ジェフ・ニコルズ
脚本:ジェフ・ニコルズ
撮影:アダム・ストーン
出演:ジョエル・エドガートン/ルース・ネッガ/マートン・チョーカシュ/マイケル・シャノン
2016年/イギリス・アメリカ

一つずつレンガを積み上げることの「忍耐力」について

 主人公のリチャード・ラビングが恋人のミルドレッドの姉のガーネットに、バージニア州では異人種間の結婚は法律で禁止されていたことを知っていながら妹と結婚したことを非難するシーンがある。もちろんリチャードは知った上でミルドレッドと結婚したのであるが、冒頭で長い間逡巡しながらミルドレッドが妊娠したことをリチャードに告げるシーンを観てしまった私たち観客はリチャードの葛藤を察して余りあるのではある。それでも白人相手にチキンゲームをしている最中ににミルドレッドとキスしたりしているのを見ると、リチャードの脇の甘さも目立つのだが、父親が黒人に雇われており幼少の頃から黒人たちと公私共に過ごしていたためにあまり深く考えていなかったのかもしれない。
 1958年に25年間の州外追放を裁判所から言い渡された後、ワシントンD.C.に住むラビング夫妻のテレビには1962年2月の「マーキュリー計画」と、1963年8月の「ワシントン大行進」が映り、『メイベリー110番(The Andy Griffith Show)』を見ているのであるが、夫妻が見ていた「ピクルス物語(The Pickle Story)」は1961年12月が初めての放送で、「結婚することの罪(The Crime of Being Married)」というタイトルでその様子の写真が掲載されたタイム誌は1966年3月の発売だから再放送を見ていたのだと思う。テレビ番組で時間経過を表そうとしたのだろうが、事実はなかなか複雑なのである。
 ずっと建設工事に携わり、黙々とレンガを積み上げていたリチャードがようやくラストで結婚前に買っていた土地に我が家を造るためにレンガを積み上げる時の感慨深さは計り知れない。


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『汚れた英雄(1982)』

2017-03-17 00:46:01 | goo映画レビュー

原題:『汚れた英雄』
監督:角川春樹
脚本:丸山昇一
撮影:仙元誠三
出演:草刈正雄/レベッカ・ホールデン/木の実ナナ/浅野温子/勝野洋/奥田瑛二/伊武雅刀
1982年/日本

「汚れた英雄」が汚れていない原因について

 『ビッグ・ガン』(ドゥッチョ・テッサリ監督 1973年)がアラン・ドロンの「アイドル映画」だとするならば、本作は草刈正雄の「アイドル映画」と言った感じで、タイトルとは裏腹に全く「汚れ」がない。
 驚くべきは最後のオチで、全日本選手権で総合優勝を果たした主人公の北野晶夫は翌年、世界選手権ロードレースに挑戦する。最初は良い成績を出せなかったが第6戦のオランダTTで優勝し、次の7月2日の午後3時11分にスパ・フランコルシャンサーキットで行われたベルギーGPで北野は死亡してしまうのであるが、この肝心なシーンは全て字幕で観客に伝えられるのである。実話ならまだしもフィクションでは意味をなさないと思う。
 角川春樹は本作が初監督作品ということもあって「置き」にいった感が半端なく、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)の『ユディトI(Judith and the Head of Holofernes)』(1901年)などが使われており「構図」にはそれなりに拘ったようではあるが、ストーリーは無いも同然でモーターレース好きか草刈正雄の大ファン以外には全く共感されないであろう。


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『ビッグ・ガン』

2017-03-16 00:25:27 | goo映画レビュー

原題:『Tony Arzenta』 英題:『Big Guns』
監督:ドゥッチョ・テッサリ
脚本:ウーゴ・リベラトーレ/フランコ・ヴェルッキ/ロベルト・ガンドゥス
撮影:シルヴァーノ・イッポリティ
出演:アラン・ドロン/リチャード・コンテ/カルラ・グラヴィーナ/ニコレッタ・マキャヴェッリ
1973年/イタリア・フランス

手本としての「アイドル映画」について

 いわゆるギャング映画なのであるが、アラン・ドロンが演じる主人公で殺し屋のトニー・アルゼンタはかなりの強者で、左腕を撃たれた以外は怪我を負うこともなく簡単に相手を殺していき、最後にサンドラを救出する際も、何故かきっちりと閉まっていなかった部屋のドアを音をたてずに開けることができるために中にいた相手に気づかれずに一発で射殺することができるのである。だから本作はギャング映画という以上にアラン・ドロンの「アイドル映画」と言った方が相応しいように思うのだが、だからと言って駄作という訳ではない。
 トニーが復讐を始める動機になった事件の、それまでの静寂を破る唐突感や、ラストのどんでん返しも上手くいっていると思う。復讐の連鎖を断ち切ろうと試みたトニーだったが、仲間でレストラン経営者のルカ・デンニーノが「あいつを何とかしてくれれば、もっと商売しやすくなる」という言葉の重みに気がついていなかったのである。


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『ペーパー・ムーン』

2017-03-15 00:06:04 | goo映画レビュー

原題:『Paper Moon』
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
脚本:アルヴィン・サージェント
撮影:ラズロ・コヴァックス
出演:ライアン・オニール/テイタム・オニール/マデリーン・カーン/ジョン・ヒラーマン
1973年/アメリカ

ギャグのセンスの「高低差」を補う手段としてのお金について

 主人公のモーゼ・プレイとアディ・ロギンスのギャグのセンスの違いが気になる。
 モーゼが旅先で知り合ったダンサーのトリクシー・デライトに語る笑い話は以下の通りである。
「その子は路面電車で雑誌を読み始めた。数ページ読むと彼女はゆっくりとストッキングと靴を脱いだ。そしてストッキングを裏返し、履き直した。それを見ていた乗客の一人が彼女に聞いたんだ。『妙なことをしてたが、一体、何だ』彼女は答えた。『雑誌の記事が過激だから履き直して風遠しをよくした』(This girl's sitting on the trolley,and she reaches in her bag,and she takes out this magazine,and she starts to read it. Well, she ain't read more than a couple of pages. And real slow and careful now, she takes her stockings down and takes off her shoes. Now, she turns the stockings wrong side out, and she puts them back on. And she puts her shoes back on. Well, all the passengers are watching. They wonder what's going on. This old guy, he-he leans over to her, and he asks her, he says, "What's...?" "l saw you indulge in a strange procedure, ma'am. What-what were you doing?" And she said, "Well, l was reading this here magazine, you know? And l found it to be such hot stuff that l... well, l felt compelled to turn the hose on myself.")」
 字幕を読む限りモーゼのギャグのどこが面白いのかさっぱり分からないが、字幕が悪い訳ではなく字幕の限界を超えているのである。最後の文章は、雑誌の内容が刺激的で「私は自分自身にホースで水をかけたい衝動に駆られた」という意味と、「hose」を「ストッキング」という意味に捉えて逐語訳するならば「自分自身がまとっている(on myself)ストッキングを(the hose)ひっくり返す(turn)衝動に駆られた」となりダブルミーニングなのであるが、このような高尚なギャグはアディには理解できないし、聞いているトリクシーも愛想笑いである。
 トリクシーやアディが好むギャグは「天蓋付き(canopy)ベッド」と「豆の缶(Can of peas)」というただの言葉遊びなのであるが、逆にモーゼにはそのような単純な言葉遊びの面白さが分からない。明らかにモーゼの方が聡明なのであるが、そんな2人の感性の違いを補う手段としてアディが200ドルという金銭で絆をつなげ止めようとする健気が物悲しいのである。


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アルフォンス・ミュシャと「スラヴ叙事詩」

2017-03-14 00:26:48 | 美術

 そもそも国立新美術館に赴いた理由は、草間彌生の『わが永遠の魂』を観賞することで、時間が

あったから『ミュシャ展』はついでのつもりで観に行ったのであるが、20枚から構成される

「スラヴ叙事詩(The Slav Epic)」には度肝を抜かれた。

 アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)に関してはパリ滞在時期のポスターや

雑誌の挿絵くらいしか知識がなかったから、商業デザイナーという程度の認識だったのだが、

「スラヴ叙事詩」は間違いなく傑作で、ミュシャが一流の画家であることを証明している。


(『イヴァンチツェの兄弟団学校(The Brethren School in Ivančice)』部分
こちらを見つめる青年が若い頃のミュシャらしい。)


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草間彌生と「自己消滅」

2017-03-13 00:43:01 | 美術

 国立新美術館では『草間彌生 わが永遠の魂』という展覧会が催されている。マティスやルオー

同様に草間も決して描写が上手い訳ではない。当初の暗い抽象絵画のような作風がやがて派手に

なってそのまま今日に至ったようなものである。

 例えば、草間には「自己消滅(Self-Obliteration)」というタイトルの作品が複数存在する。

「Obliteration」とは「消印」という意味で、ようするに最初は自分の肖像に消印を押すことで

自分の存在を消すことを目指していたのであるが、それがやがて「水玉」と呼ばれるように

なり、生命の源泉として意味をひっくり返した点にアーティストとしての草間の力量が見られる。

 気になった作品として1962年制作の「顔の集積 No.2」という作品がある。タイトル通りに

様々な人物の顔を集めたコラージュなのであるが、これはビートルズが1966年にリリースした

『リボルバー(Revolver)』のアルバムジャケットに影響をもたらしたようにも見える。


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アンリ・マティスとジョルジュ・ルオー

2017-03-12 00:25:01 | 美術

 パナソニック汐留ミュージアムでは『マティスとルオー展』が催されている。全く作風が違う

ように見える二人の画家が頻繁に手紙を交わすほど仲が良いということが意外だったのであるが、

ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)を同師とする2人の作風の流れを見ていくと、

意外と多くの共通性を見いだせる。

 基本的に描写が荒い点が2人の共通項ではあるが、友人のエミール・ヴェリ(Émile Auguste Wery)

から印象派の影響を受けたマティスは明るい方へ、画家になる前にステンドグラスの職人として

働いており、ギャラリーを経営していたエメ・マーグ(Aimé Maeght)から「Le NOIR est une COULEUR

(黒こそ色だ)」という展示会のオファーを受け、マティスからも黒が「特質(timbre)」だと

言われていたモローは太い黒の輪郭線を特徴とする作品を描いていくことになる。

 胃がんを患って体調を崩した1940年代からマティスは切り絵による『ジャズ(Jazz)』の

ようなよりポップな作風に変化していき、モローも晩年の作品になるほど明るさが増しているので

あるが、何よりもそもそもモローはカンバスとしてずっと紙を使っているのである。


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