枝豆はビールのつまみとしては定番であるが、わが国でビールが飲まれ始めた頃はそうではなかった。キリンビール編「ビールと日本人(河出文庫 昭和六十三年)」に興味深い記述がある。
東京でビヤホールが初めてつくられたのは明治三十二年のことであるが、そのビヤホールをつくった日本麦酒株式会社の専務取締役の馬越恭平は、雑誌『太陽』(第六巻七号、明治三十三年六月)に次のような談話を載せている。
独逸内地でも近頃壜に詰めて売ることを始めたものがあるが、併しまだ現今の有様では一杯売が、普通の麦酒を売る仕方です。それですから(中略)大きな醸造場になると、立派の場所を拵へて、其処で自分の所の麦酒を一杯宛客の求めに応じて売り、之を「ビヤホール」と云ふのです。
ドイツでビヤホールといっているところでは少なくとも五、六〇〇人から一〇〇〇人くらいの収容能力があり、小規模のものはホールといわず、別の名で呼んでいるが、日本ではそういう区別をせず、ビールを飲ませるところをほとんどビヤホールと呼んでいる、というようなことも語っている…日本では始めのうちビヤホールでつまみに大根を供したが、これなどもドイツのビヤハーレを真似たもので、日本のビヤホールの原型がビヤハーレにあったことを物語っている。ドイツでは、三センチくらいの幅で帯状に薄く切った大根が、今もごく普通のつまみである…前述の『太陽』の馬越談話にも、八十数年前のドイツのビヤホールの大根売りが登場する。
大根屋が店を出して居ればそこで大根を買ふと、塩を紙に捻ふて呉れるからそれを附けて食ふ。
馬越は新橋のビヤホールにそれを取り入れたが、これは日本人の口に合わなくて、ほどなく姿を消した。明治三十二年九月四日付の『中央新聞』には、大根は人気がなく、佃煮にかわったと書かれている。
○大根と佃煮(略)新橋のビーアホールでも、最初大根を出して置いたが、是に手をつけるものは至って少なく、何か他のものをと言ふ人が多かったのでそれから蕗、海老などの佃煮にした。是れは大に佳とせられたけれども、余り不体裁なので、最早全然廃す事にしてしまったそうだ。
明治期のつまみ類が質素なのはまだ肉食文化が下々まで普及していないことも大きいと思う。いろいろ試した結果、色鮮やかで食べやすい枝豆が好評を博し、現在に至っているということだろう。
