寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

広島市西区古江西町の樽ヶ崎宮(その6)

2010年10月30日 | 
薄田太郎さんは「がんす夜話」で重いテーマについても触れている。高度経済成長期に生まれた者にとっては非常に役立つ記述だ。

 樽ヶ鼻は維新前に刑場となった(※1)が、古江古老の話によると文政八年(一八二五年)十一月二十六日に古江村の百姓勘四郎が、この樽ヶ鼻の刑場で斬首の上獄門にかけられた。

 (中略)

 その後の樽ヶ鼻刑場の記録では、文政十年十一月二十六日、鳥屋町に店を構えた八百屋卯右衛門が御蔵預差紙を偽造して大金をリャク奪した罪に問われ、市中引き回しの上、樽ヶ鼻で斬首獄門にかけられている。…

 刑場といえば、寛永十一年正月十二日(一六三四年)に己斐村の河畔で行われたヤソ教徒の火刑(※2)がある。この日処刑されたのは、麹屋の乳母である。

 なお城下の刑場は寛永十年十一月から材木新開の材木屋敷に置かれていたという。材木新開というのは、のちの船入新開(※3)のことである。

行刑に従事した者達の苦悩、見返りに得たものなどを調べていくと世の中の明暗が見えてくる。現在の死刑制度を再考する上でも江戸期の実態はしっかり押さえておくべきだと思う。

私は樽ヶ崎宮の隣に立ち草津・庚午地区を見下ろした。干拓によってできた庚午地区を青色に塗り潰して古代の海岸線を頭の中で描いてみた。

※著者注1 「知新集」には浅野長晟(ながあきら)が入封した頃はここが御仕置場であったという記述がある。また「広島県の地名 日本歴史地名大系35」で樽ヶ崎(西区古江西町)はこう解説されている。
      
 俗に樽ヶ鼻という。…その後の埋立で現在は市街地になっている。…当地近くの清水山は神武天皇が清水を汲んだ所と伝える(国郡志下調書出帳)

※著者注2 広島市西区己斐東にキリシタン殉教之碑が設置されている。
※著者注3 竹ヶ鼻の刑場は広島市中区河原町にあった。河原町地蔵尊には刑死者も祀られている。

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