廉塾および菅茶山旧宅から東へ約150mの地点、出原治療院の手前を右折する(目印は一方通行の標識)と古城八幡宮の参道に至る。

古城山はもともとは古墳でその後城が築かれ現在跡地には市営住宅が建っている。古城山の歴史については『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』が詳しい。
古城山古墳とは川北と平野にまたがる小丘で、古城山城址をこの名をもって呼ぶ。
この地は上利アガリ右近が城居の跡と伝え、古城山の名とともに地形上城址であったことが察知し得られる。
これが築城に当り山頂を切り崩したようであるが、更に昭和九年二月高屋川の改修に際し、築堤のため大々的に土砂を採取したので、一層形態を失うに至った。加うるに、昭和三十一年四月及び同三十二年四月の両度にわたり町営住宅を建築したので、全くその状況を異にすることとなった。
上利氏は上里ウエサト、上里カミサトなどと同氏族といわれるので、御調郡御調町丸門田の丸山城主上里實秀が三次から移り天文十三年(一五四四)三吉氏を攻めたことを思えば、この古城山の築城もまたこれと前後してなされたものと見られる。
よってその頃までは原形をのこしていたものの如くであり、その形式は前方後円墳と見られる。
この墳は、自然の地形を利用してつくられたものであるが、いま後円部は丘上を切断して約一千歩にわたる平坦面をつくり、その南端に八幡神社を祀り、それに北隣して町営住宅二十戸が存する。
八幡社は鶴ヶ岡八幡宮を勧請したものとつたえ、昭和九年に上記のように丘上を切りとるまでは、西丘腹にあったものである。
鶴ヶ岡八幡宮を勧請齋祀することは多く鎌倉初期に行なわれるので、築城は余程時代を降るものと思われる。


古城山は西深津の蔀山のような丘と言った方が適切な表現であろう。石段を上った先にはこじんまりとした社殿が建っており扁額にはただ八幡宮と記されている。境内社として荒神社が端の方にあった。



古城山はもともとは古墳でその後城が築かれ現在跡地には市営住宅が建っている。古城山の歴史については『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』が詳しい。
古城山古墳とは川北と平野にまたがる小丘で、古城山城址をこの名をもって呼ぶ。
この地は上利アガリ右近が城居の跡と伝え、古城山の名とともに地形上城址であったことが察知し得られる。
これが築城に当り山頂を切り崩したようであるが、更に昭和九年二月高屋川の改修に際し、築堤のため大々的に土砂を採取したので、一層形態を失うに至った。加うるに、昭和三十一年四月及び同三十二年四月の両度にわたり町営住宅を建築したので、全くその状況を異にすることとなった。
上利氏は上里ウエサト、上里カミサトなどと同氏族といわれるので、御調郡御調町丸門田の丸山城主上里實秀が三次から移り天文十三年(一五四四)三吉氏を攻めたことを思えば、この古城山の築城もまたこれと前後してなされたものと見られる。
よってその頃までは原形をのこしていたものの如くであり、その形式は前方後円墳と見られる。
この墳は、自然の地形を利用してつくられたものであるが、いま後円部は丘上を切断して約一千歩にわたる平坦面をつくり、その南端に八幡神社を祀り、それに北隣して町営住宅二十戸が存する。
八幡社は鶴ヶ岡八幡宮を勧請したものとつたえ、昭和九年に上記のように丘上を切りとるまでは、西丘腹にあったものである。
鶴ヶ岡八幡宮を勧請齋祀することは多く鎌倉初期に行なわれるので、築城は余程時代を降るものと思われる。


古城山は西深津の蔀山のような丘と言った方が適切な表現であろう。石段を上った先にはこじんまりとした社殿が建っており扁額にはただ八幡宮と記されている。境内社として荒神社が端の方にあった。


