私は旧山陽道から離れて丘に上り(旧深安郡神辺町営)古城住宅に辿り着いた。小さな平屋が並ぶ一角は非常に静かである。テレビの音声が流れる古い部屋の住民は年寄りだった。
古城山城は、神辺城の東北方における小丘で東は平野に境し、古城山の名をもって呼ばれているので便宜かくは称することとする。
この山は既に原史時代の部で記述しているように、古墳が営まれていたのを、頂点を削平して城郭となしたもので、昭和九年高屋川の改修により切り取ったとき石槨があらわれたといわれ、十数年ののちもなお須恵器の破片が散じていた。
更に昭和三十一年には大々的に掘り下げて、公営住宅を建築したので、全く城郭としての形態をのこしていない。この丘陵は、円錐状の小岡の南にいま一つの小丘があって、前方後円墳とも見られていたが、その後円部が本丸で、前方部に二の丸ともいうべき郭が設けられ、堀は古墳時代からめぐらされていたとも思われ、地形によってそれがうかがわれる。
西方山腹の八幡社(昭和九年山頂に移した)は宗教的な防備として、その冥加は大きなものとされていたことであろう。
『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』
川北と平野の境(山陽道)が一望できる場所に移動した私は天保十一年(1843)六月の備後大洪水の様子を想像した後、高屋川の流れと堤が変わっていることも自分の目で確かめた。そして平野村が治安維持という重要な役割を担っていた意味合いをはっきりと理解したのである。
古城山城は、神辺城の東北方における小丘で東は平野に境し、古城山の名をもって呼ばれているので便宜かくは称することとする。
この山は既に原史時代の部で記述しているように、古墳が営まれていたのを、頂点を削平して城郭となしたもので、昭和九年高屋川の改修により切り取ったとき石槨があらわれたといわれ、十数年ののちもなお須恵器の破片が散じていた。
更に昭和三十一年には大々的に掘り下げて、公営住宅を建築したので、全く城郭としての形態をのこしていない。この丘陵は、円錐状の小岡の南にいま一つの小丘があって、前方後円墳とも見られていたが、その後円部が本丸で、前方部に二の丸ともいうべき郭が設けられ、堀は古墳時代からめぐらされていたとも思われ、地形によってそれがうかがわれる。
西方山腹の八幡社(昭和九年山頂に移した)は宗教的な防備として、その冥加は大きなものとされていたことであろう。
『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』
川北と平野の境(山陽道)が一望できる場所に移動した私は天保十一年(1843)六月の備後大洪水の様子を想像した後、高屋川の流れと堤が変わっていることも自分の目で確かめた。そして平野村が治安維持という重要な役割を担っていた意味合いをはっきりと理解したのである。