私は古市公民館(神辺町字平野146‐2)まで足を延ばした。公民館の南側が荒神社境内で山陽道寄り(南西角辺り)に一里塚跡の標柱が建っていた。
西国街道は…五街道に準じた重要な交通路で、文祿・慶長のころは、備中高屋宿より御領・神辺へ出て、中津原から郷分村へ入り、今津を通り西村・御調郡三成村を経て三原に至る順路であった 備陽六郡志 。しかし、水野領時代の万治二年(一六五八)三百石に及ぶ沼隈郡高須村の新開造成地が完成すると、西国街道は今津宿より高須村へ入り海岸沿いに尾道・三原を経由することとなった。かくて、水野領内の西国街道は備中後月郡高屋村から尾道坊寺カ峠まで七里弱で、その間に宿駅が高屋・神辺・今津の三カ所、一里塚は上御領村・平野村・中津原村・山手村・赤坂村・今津村・高須村の七カ所にあった。
『福山市史 近世編』
現代人は一里塚の間隔を正確な数値と思いがちだが、実は違う。あくまでも大体の目安だったと覚えておくべきだ。一里塚は街道の両側に置かれていたことは当時の絵図からも分かる。平野古市の荒神社に参拝した後、境内東側のモルタル建築の前で足を止めた。
西国街道は…五街道に準じた重要な交通路で、文祿・慶長のころは、備中高屋宿より御領・神辺へ出て、中津原から郷分村へ入り、今津を通り西村・御調郡三成村を経て三原に至る順路であった 備陽六郡志 。しかし、水野領時代の万治二年(一六五八)三百石に及ぶ沼隈郡高須村の新開造成地が完成すると、西国街道は今津宿より高須村へ入り海岸沿いに尾道・三原を経由することとなった。かくて、水野領内の西国街道は備中後月郡高屋村から尾道坊寺カ峠まで七里弱で、その間に宿駅が高屋・神辺・今津の三カ所、一里塚は上御領村・平野村・中津原村・山手村・赤坂村・今津村・高須村の七カ所にあった。
『福山市史 近世編』
現代人は一里塚の間隔を正確な数値と思いがちだが、実は違う。あくまでも大体の目安だったと覚えておくべきだ。一里塚は街道の両側に置かれていたことは当時の絵図からも分かる。平野古市の荒神社に参拝した後、境内東側のモルタル建築の前で足を止めた。