昭和末期の西条駅前には小規模の寂れた商店街があった。しかし、広島市内からやって来た若者の欲求を満たすような店があろうはずもなかった。マニアックな書籍やCDは必ず取り寄せになった。自転車をこいで遥か遠くの駅まで出るのも馬鹿馬鹿しい。だから時間はかかっても大学生協を利用して物を買い出した。
あれから20年の月日が流れ、駅前商店街は驚くほど様変わりした。個人経営の店の多くが姿を消し「今流行りの居酒屋」が軒を並べて小奇麗にはなっている。食料品関係で残っている昔からの店は「八百屋」と「ショージ」くらいではないだろうか。

西条駅から鏡山公園方面に延びた直線道路は「ブールバール」と呼ばれ、両脇には高層の建物がたくさん出来ている。大学移転が完了して東広島市西条は確かに発展したが、自然豊かな時代に学生生活を送った者としては、俗悪な面が気になり複雑な心境だ。文化的な街に成長するには本当に長い時間がかかる。


初めて西条キャンパスの下見に行ったのは昭和63(1988)年3月のことだ。友達と駅から大学まで歩くつもりだったが、あまりの遠さに途中で断念してバスに乗った。現在のバス路線とは異なり、回り道をして大学に向かうので距離は5km程度あったと思われる。
大学の周りには飲食店やコンビニや本屋がないのを車窓から見て一同は暗い顔つきになった。広島に戻る前にフジ東広島店に入って遅い昼食を取った。そしてレコードショップ(音響堂?)で中森明菜の新譜「Stock」を土産として買ったことを覚えている。
フジはその後名前をフジグランと改めたが、収益が上がらないために平成19(2007)年9月末をもって閉鎖された。建物は既に取り壊されて更地になっている。土地を購入した広島市中区のアーバンコーポーレーションがマンションを建設するらしい。跡地の対面が中央公園で昔の面影が微かに残っている。

大学の周りには飲食店やコンビニや本屋がないのを車窓から見て一同は暗い顔つきになった。広島に戻る前にフジ東広島店に入って遅い昼食を取った。そしてレコードショップ(音響堂?)で中森明菜の新譜「Stock」を土産として買ったことを覚えている。
フジはその後名前をフジグランと改めたが、収益が上がらないために平成19(2007)年9月末をもって閉鎖された。建物は既に取り壊されて更地になっている。土地を購入した広島市中区のアーバンコーポーレーションがマンションを建設するらしい。跡地の対面が中央公園で昔の面影が微かに残っている。


20年前(昭和63年)の今頃は、大学生として2回目の夏休みを過ごしていた。地元に早々に帰省して家庭教師のバイトをしながら、免許取得のために自動車学校に通っていた。
休み明けの試験で単位が揃った者は専門課程に進むことが決まっており、何となく憂鬱であった。1年半暮らした思い出深い広島の街を去り、未開の東広島市に移住しなけばならないのが堪らなく嫌だったのである。
私は10月上旬に東広島市民となった。西条駅前のバス・タクシー乗り場の汚さは呆れるほどで「酷い田舎に来たもんだな」と思った。当時大きなスーパーといえば近くの「フジ」か「西条プラザ」を指した。
大学に向かうバスは1時間に1本あるかないかで、車を持たない人間にとっては頭痛の種だった。「島流し」に慣れるまで軽く半年を要したが、次第に「待つ」ことや「我慢する」ことの意味を覚えていった。


夕方俄か雨が降ったが、すぐに止んだ。おかけで街は熱の島となっている。いくら暑くても晩飯だけはきちんと食べるので夏バテ対策は万全だ。
ラックから「Philadelphia Special」を引っ張り出して聴いている。ミック・テイラーのギターソロが華麗で、旬とも言える時期の演奏は安心して聴けるからいい。
ジミー・ペイジにもかつては同様の時期があった。1970~71年頃がギタリストとしてはピークで、以降は下り坂だった。花と同様にギタリストの旬も短い場合が多い。
絶不調のヨレヨレの演奏にも「味がある」と肩を持つ人はいるが、無理があり過ぎる。汚れた港で釣り上げた「鯔」の身をいくら洗おうとも、夏の「鱸」の味にはならないのである(笑)
ラックから「Philadelphia Special」を引っ張り出して聴いている。ミック・テイラーのギターソロが華麗で、旬とも言える時期の演奏は安心して聴けるからいい。
ジミー・ペイジにもかつては同様の時期があった。1970~71年頃がギタリストとしてはピークで、以降は下り坂だった。花と同様にギタリストの旬も短い場合が多い。
絶不調のヨレヨレの演奏にも「味がある」と肩を持つ人はいるが、無理があり過ぎる。汚れた港で釣り上げた「鯔」の身をいくら洗おうとも、夏の「鱸」の味にはならないのである(笑)
