浄土宗・大念寺の所在地は福山市寺町1‐20。旧街道から一本北の通り沿いにある。境内西南隅の大きな石仏(西向き)の鼻は無残にもげている。
所々に見える不自然な黒い染みは福山空襲の際に炎に包まれて出来たものだろう。六地蔵の一つも頭が失われておりやはりこちらも全体が黒っぽく変色している。「福山空襲焼失家屋地図」を見ると寺町周辺は焼け野原になったことが分かる。
大念寺は(旧深津郡)深津村から三吉村に移転した専故寺と深い関わりがあった寺と伝えられるが、境内の北西隅に深津高地に残る卒塔婆(福山藩初期の御仕置場跡地付近)とよく似た石造物が並べられている。
以前私は(首塚のあった)専故寺が福山空襲で焼け落ちて再興されなかった(※地図では何故か赤く塗られていないので修正を施した)と書いた。専故寺の檀家は戦後大念寺に移ったとの記述をある文献で読んだ記憶があるが、確認は取っていない。藩政時代に仕置された数多くの罪人(無縁仏)をどう供養したのかは非常に気になるところだ。まともな郷土史研究家を福山で育てるためにも現住職には機会を設けて語っていただきたいものである。
所々に見える不自然な黒い染みは福山空襲の際に炎に包まれて出来たものだろう。六地蔵の一つも頭が失われておりやはりこちらも全体が黒っぽく変色している。「福山空襲焼失家屋地図」を見ると寺町周辺は焼け野原になったことが分かる。
大念寺は(旧深津郡)深津村から三吉村に移転した専故寺と深い関わりがあった寺と伝えられるが、境内の北西隅に深津高地に残る卒塔婆(福山藩初期の御仕置場跡地付近)とよく似た石造物が並べられている。
以前私は(首塚のあった)専故寺が福山空襲で焼け落ちて再興されなかった(※地図では何故か赤く塗られていないので修正を施した)と書いた。専故寺の檀家は戦後大念寺に移ったとの記述をある文献で読んだ記憶があるが、確認は取っていない。藩政時代に仕置された数多くの罪人(無縁仏)をどう供養したのかは非常に気になるところだ。まともな郷土史研究家を福山で育てるためにも現住職には機会を設けて語っていただきたいものである。