青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

博多を目指した、夢のあとさき。

2024年10月19日 09時00分00秒 | 筑豊電鉄

(揃いの色で@今池電停)

電車から降りて来たお母さんの日傘の色と、電車の色が揃っていた今池電停。八幡東区の住宅街を、線路は南へ走ります。萩原電停の周辺とは違って、この辺りは比較的新しく開かれた住宅街のようで、若年層やファミリー層の利用も目立ちます。筑豊電鉄は、北九州の屋根とも言える皿倉山・帆柱山と、遠賀川の間に広がる丘陵地を直方に向かって行きますが、標高は30m~50m程度とそこまで高くないものの線路は案外とアップダウンが多い。そして、意外なのは踏切が少なく立体交差になっていること。永犬丸、三ヶ森あたりの道路と鉄道の整理状況は、流石に政令指定都市という感じがする。見た目は路面電車でも、れっきとした「鉄道」である筑鉄の面目躍如といったところでしょうか。

西山電停付近。30‰に近い勾配を黒崎駅前行きの電車が登って行く。筑豊電鉄は昼間は20分間隔で走り、4運用が回転しています。3000形2運用・5000形2運用ですね。3000形は2両連接、1988年デビューの3001Aはトップナンバー。1988年と言っても30年以上前ですから、それなりのキャリアを積んだベテラン選手。もともと、先代車両の2000形の台車や制御機器を流用し、アルナ工機で新造した車体を乗せた車両ですので、足回りはツリカケ駆動の川崎重工製。中間連接車が入った3両編成と2両編成があった2000形に対して、3000形はオール連接2連で少しコンパクト。西鉄系の鉄道会社は基本的に神戸の川崎重工を納入先に選びますね。場所だけで言えば下松の日立とかの方が近いんだけど、今のところほぼ川重オンリー。

車窓は北九州市から筑豊の中間市へ移り、JRの筑豊本線が通らない市街の東部を掠めながら直方に向かって行く。正直言って、車窓に見どころがあったり何かがあったりと言う訳でなく、どこにでもあるような住宅街の中をガタコンガタコンと走るのみ。丘を越えて、筑豊香月のあたりからレールは遠賀川の作り出す田園地帯に変わる。ローカルなムードが出てくるのはこの辺りからでしょうか。そのまま直方まで乗るのもつまらないので筑豊香月の駅で下車し、駅周辺の田んぼでカメラを構えると、青々とした田んぼを横目に、ケロケロとカエルのラッピングをした車両が通り過ぎて行きました。

車庫のある楠橋から山陽新幹線の下を通って新木屋瀬、木屋瀬。直方市に入って遠賀野、感田と小さな電停を通過すると、電車は右にカーブを取りながら築堤を上がり、筑豊電鉄最大の土木構造物である遠賀川橋梁を渡って直方の市街地に入って行きます。複線電化でこんなに大きな鉄橋が架橋できるのだから立派なもの。筑豊電気鉄道が筑豊直方まで線路を伸ばしたのは1959年(昭和34年)のこと。あくまで黒崎から直方・飯塚を通り、福岡市内へ至る鉄道として開業させるつもりだったらしく、黒崎~直方間は第一工区という前置きだったようです。福岡延伸については1971年に免許が失効し、黒崎~直方の域内輸送に留まる同社ですが、まかり間違って(失礼)福岡までの延伸が実現していたら・・・それこそ遠賀川の鉄橋を西鉄電車の5000形の特急がビュンビュンと走り抜けていたのかもしれません。

黒崎駅前から30分、終点の筑豊直方に到着。遠賀川の鉄橋からそのまま高架で直方市街へ突っ込んだような形で終わっている線路ですが、高架線を途中ですっぱりと切り落とした駅の形に「福岡まで伸ばす気満々」であった往時の姿が垣間見えます。まあそれにしても、直方から飯塚を通って八木山を越えて福岡市内に至る計画ということになると、現在の筑豊本線と篠栗線のルートに完全に並行する形になるのですが勝算はあったんだろうか。勝算がないから建設されなかった、ということで歴史の決着はついているのですが、計画の時点では篠栗線の篠栗~桂川間は開通しておらず、西鉄グループとしては筑豊炭田の石炭輸送に軸足のあった当時の国鉄にケンカを売りに行っても、旅客輸送で十分に勝ち目があるという目算だったのでしょうね。篠栗線が桂川まで開通したのが1968年(昭和43年)、筑豊電鉄の免許の失効が1971年(昭和46年)。国のエネルギー政策の転換で筑豊炭田にその勢いの翳りが見え、国鉄篠栗線も開通し、色々と察した・・・という感じの福岡延伸の終幕劇ではなかったかなと。

筑豊直方駅は、JRの直方駅と少し離れた場所にあって、歩くと10分くらいかかる。と言う訳で、直方の駅へ向かって市街を歩いて行くのだが、通り抜けて行く須崎町商店街のアーケードの完全なるシャッター通りぶりが見事で、絵に描いたような斜陽化を呈している。しかしまあ、石炭産業は終焉したとはいえ今でも直方市は人口55,000人を抱える筑豊第二の都市であるのですが、この必要以上に斜陽化して見えてしまう感じってのは駅周辺の空洞化ってのもあると思うねえ。直方駅前、目抜き通りの明治商店街はそれなりに・・・という感じもしたけど、やっぱり今栄えているのはそれこそ筑豊電鉄の遠賀野駅から向こう、九州道の八幡ICと国道200号線バイパスが交わる「イオンモール直方」周辺。直方駅の周辺は完全に旧市街化していて、さすがに駅周辺は思い切った再開発が必要じゃないかと思うよ・・・このままだと治安とか防犯、防災上も良くないし。こういう古い木造のトタンの長屋と天街、火事なんか出たらひとたまりもないでしょう。

そんな寂れた商店街をそぞろ歩きながら、蒸し暑い空気に耐えかねてアーケードの出口にあった年季の入った駅前食堂に飛び込んだ。昼下がりの店内に他の客はおらず、大汗を拭きながらやって来た遠来の旅のものに、「暑いわねえ!ここがウチの(店の)特等席なのよ!」と古びたクーラーの風が全開で当たるテーブルに招かれる。出された水を一息で飲み干すと、それを察したおばちゃんがこれまたレトロな取っ手付きの水差しをそのまま持ってきて「ここに置いときますからね」と言って去って行った。頼んだカツ丼は、何故か博多ネギが一本ぴょろりと、それこそ磯野波平の頭のてっぺんの如くアピールする不思議なビジュアル。駅前食堂のカツ丼とか、ある意味テンプレ化した定番の食い物だけど、それだけにちゃんとブラッシュアップされてるのか、外れを引くことが少ないんだよね。

どれだけの人に頼まれ、どれだけの人が食べたのだろう。
ほの甘いダシの味、ツユの染みたコロモ、そして卵でとじたカツをメシと一緒にがっつく食べ応え。
元気が出る、駅前食堂の味です。

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昭和がピークの街の姿。

2024年10月16日 23時00分00秒 | 筑豊電鉄

(街を守るかマーケット@萩原電停)

強烈にムシムシとした空気、とうとう雨が降り出して、空もご機嫌斜め。冷房の効いた車内から出るのも億劫だったのだけど、黒崎駅前から三つ目の萩原電停で下車してみる。北九州市の中でも八幡西区は一番人口の多い区で、黒崎・折尾地区と筑豊電鉄の沿線を包含する北九州市のベッドタウン。筑豊電鉄はそんな八幡西区の住宅街を走って行きます。萩原電停は住宅街の真ん中を突っ切る道路を挟んで互い違いの位置に設置されていて、電停の前には昭和の時代から建っているであろうスーパーがあった。「萩原生鮮食品マート」の看板が見える。段ボールが山積みにされて店内が見えないのだが、中を見ると昭和40年代の団地に併設されたスーパーそのまんまであった。北九州市、平成の入口では100万人を超える人口を有していましたが、今では100万人を大きく割り込み90万人割れが目前に迫っているという状況にあります。北九州市の人口は、そのまま北九州工業地帯の重厚長大産業を支えた旺盛な労働力のカタマリでもありましたが、北九州工業地帯の衰退が痛いですねえ・・・と言っても主に新日鐵八幡なんですけど、韓国や中国による安価な鉄鋼製品の輸入に押された高炉設備の縮小、業界再編の波による従業員の整理などが進み、往時の勢いは失われたままです。そもそも、新日鐵も住友金属と合併して新日鐵住金から日本製鉄に変わってしまってますよね。新日鐵、新日鐵、ニッポンスチールゴーゴーゴー。

萩原電停の前の交差点から眺める景色は・・・うーん。なんという昭和50年代。公団住宅とその間の植え込みと、住宅付きの商店街。そして、その商店街のほとんどの店がシャッターを下ろし、ひっそりとしている。カラフルな日除けだけが侘しい。全国に広がる「団塊世代が働いて、団塊ジュニアが育った光景」がそこにあります。エレベーターもない5階建ての団地は、階段に沿って右と左に一軒ずつの住居がセットされている典型的な公団住宅メイド。階段の踊り場が外から見えるオープンエアーで、その階段に沿って縦に伸びる筒状の物体はたぶんダストシュート。壁から風呂場のガス釜のアルミ製の排気孔がにゅっと突き出ててさ。もうね、自分が小さいころ育った団地の風景がそのまんまなの。逆に言うと、それが更新されないで残っているという北九州の現状がそこにあって、おそらく昭和がピークでそっからの未来を描けないでいる街の姿・・・と言ったら言葉が過ぎるだろうか。

晩夏の雨はしとしとと、八幡の外れの街のアスファルトを濡らす。駅前スーパーの女主人が、ゆっくりと杖を突いて店前の道路に出て来ては、雨に濡れそうな段ボールを店の雨除けの下に押し込んでいる。線路沿いに建ち並ぶ集合住宅には洗濯物の影もなく、いったいどれくらいの部屋に人が住んでいるか分からない。これは、県の住宅供給公社が建てた県営住宅のようだ。北九州市、日本の政令指定都市の中でも最も高齢化率が進んでいて、令和4年では65歳以上の高齢者が市民の31.2%。高齢者独居世帯率も15.0%とこれも全国の政令市でトップ。それだけに、段差が少なくバリアフリー対策が施された(?)電停の多い筑豊電鉄は、老人社会になっている今の北九州にはフィットしたモビリティと言えるのかもしれませんが・・・

筑豊電鉄の最新鋭車両5000形。アルナ工機で製造された「リトルダンサー」シリーズの一角で、豊橋鉄道市内線の「ほっトラム」とか、富山地鉄の「サントラム」なんかと同じタイプですね。そういう客層に合わせてか、筑豊電鉄の日中は超低床型車両の運用が優先されるらしく、3000形は2運用しか回らないようです。筑豊電鉄の3000形、色々なオールドタイプのカラバリがあって、撮影してみたかったんだけどねえ。

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北九州のインターアーバン。

2024年10月14日 16時00分00秒 | 筑豊電鉄

(夏の朝、那珂川を往く@井尻~大橋間)

最近はちょっと資格試験なんかの勉強をしなくてはならなくなって、勢いブログなんかを書いている暇もない。それに加えて仕事も毎日21時までの残業続きで、平日はほとんどパワーが残らない生活が続いております。そうなると、8月の話がダラダラ続いてしまうのだけど、夏の九州遠征3日目は朝の西鉄那珂川橋梁から。福岡市内の便利の良さそうなところに宿を取ろうと思ったのだが、最近のインバウンドの影響なのか天神も博多周辺もまあ高いんだよね。円/ドル150円時代は多少高くても外国人からふんだくっちゃえってのは分かるけど、そもそもの値付けが強気。そのため、ちょっと中心街から離れた西鉄大橋駅からバス便の温泉旅館に宿泊しました。旅館って言っても地下に温泉のある3DKのマンションって感じで、一人では広すぎましたかね。ここにした理由は、西鉄の撮影地の一つでもある那珂川橋梁に近かったってのがあった(笑)。朝6時から那珂川で5000形の急行撮って、宿に帰って温泉入って、さっぱりしてから朝ごはん。充実した朝活です。

 最終日のスタートは西鉄バスから。西鉄バス、福岡都市圏で言えば地下鉄よりも鉄道よりも頼りになる公共交通でして、鉄道がない場所でも西鉄バスに乗れば大体どこへでも連れてってくれるという安心感がある。日本最大のバス事業者は神奈川中央交通ですが、西の覇王というならこの西鉄バスでしょう。とにかく福岡の中心街だと幹線道路だったら息つく暇もなくバスがガンガン走って来るのですが、逆に素人には系統が多過ぎてどれに乗ったらいいのかがさっぱり分からない、という問題はあったりする。あと、福岡の人ってバス停で並ばないね。なんかバスが来るとワサーっと乗車口に集まってめいめいに乗ってく感じがアジアっぽい。海外行ったことないけどw

宿の近くのバス停から西鉄バスに乗り、JRの竹下駅へ。ここにはJR九州の博多運転区があって、留置線に色々な車両が置かれていた。お、「ななつ星」も置かれてるね。九州なんか来るの久し振りだから肉眼で見るのは初めてだ。オレンジ色の特急は佐世保方面に向かうハウステンボス号かな?西九州方面も、長崎新幹線が中途半端な区間だけ開業してしまい、佐賀県内が紛糾したまま取り残されていますが、どうするつもりなんでしょ。佐賀県的には多額の建設費を計上しても、佐賀から福岡くらいだったら現行の特急で往復しても時間のメリットがそう変わらない(運賃は上がる)では、なかなか説得が難しそうなのですが・・・

鹿児島本線の快速電車に乗り、ウトウト、快速電車で飛ばしていっても、小倉までは1時間ちょっとはさすがに遠い。関東に住んでいるとあまりピンと来ないが、博多から小倉の距離は約70km弱と、東京からだと平塚の先くらいまでの距離がある。この日の帰りは小倉から新幹線だったので、まずは背中の重い荷物をコインロッカーに押し込んで身軽になりたかった、というのがあった。猛暑の中で2日間行動して多少疲れてるってのもあるし・・・小倉から普通電車に乗って折り返してきたのは黒崎駅。駅隣の黒崎バスセンターの1Fにある乗り場は、筑豊電気鉄道の黒崎駅前電停。

元々北九州市には、門司から小倉駅前を通って黒崎から折尾に至る西鉄北九州線という路面電車が平成初期まで走っていましたが、折しもの鉄鋼不況で北九州全体の産業が停滞する中、1992年を持って砂津(小倉)~黒崎駅前間が廃止。最後まで残っていた黒崎駅前~折尾駅前間も2000年ごろに廃止となっています。北九州市は、門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・そして若松市の広域5市合併により生まれた巨大工業都市ですが、その隆盛はやはりエネルギーの供給源としての筑豊炭田を背後に控え、明治維新以降の官営八幡製鉄所を中心にした重化学工業地帯の旺盛な生産力だったことは間違いありません。ここからはそんな北九州の街から産炭地である筑豊地方を結ぶ筑豊電気鉄道に乗ってみようと思います。

筑豊電気鉄道は、黒崎駅前から直方市の筑豊直方までの16.0kmを約30分少々で結ぶ都市間連絡鉄道。やって来たのは同社の主力車両である3000形。車両は軌道線に準じた低床型車両が使われていますが、路面電車のように道路上を走ることはありません。西鉄の北九州線と異なり、クルマ社会と干渉せずに生き残れたのも、終点まで路面を走ることのない純然たる「鉄道」だったことも大きいのかもね。元々、筑豊電鉄は西鉄の北九州線の兄弟分のような路線で、その成立の経緯も西鉄が資本を拠出して設立した実質の連結子会社。西鉄の鉄軌道路線が北九州市内から消えた今でも、グループ会社として地元の足を守っています。

それにしても、戦後間もなくの開業当時は、西鉄が直方から八木山をトンネルで越えて福岡までの路線延伸を計画していたというのだから、なんと遠大な計画であろうか。
それだけ筑豊も北九州も勢いがあったということなんでしょうね。

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