青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

夏の自由研究、完結す。

2024年10月27日 10時00分00秒 | 平成筑豊鉄道

(カラフルVSカラフル@伊田商店街)

石炭博物館の帰り、伊田の商店街の入口で平成筑豊鉄道の列車を待つ。カラフルなアーケードの横を、直方行きのNDC が通り過ぎて行く。アーケードの奥には、店の名前を記した行灯が連なっている。時刻は夕方少し前、昭和の時代の伊田商店街ならば、あちらこちらに夕餉の材料を買い求める筑豊の奥様方の姿があったのだろう。そういう人たちはどこへ行ってしまったのか・・・と問われると、そのままお年を召されて、もう駅前の商店街をブラブラするような気力はないのかもしれない。直方同様、この街も商業の中心地は国道201号の田川バイパス沿いに立つ「サンリブ田川」というショッピングセンターを中心にしたロードサイドに移っている様子。そもそも田川市、1989年(平成元年)の人口5万8千人から2024年(平成6年)の人口は4万5千人。平成時代に20%以上の人口減を食らい、団塊の世代はそのまま高齢化という日本の地方都市の宿痾を抱えています。結局どこでもそうなんだけど、都会へ出て行った若者が戻らないということなんだろう。一時期、石炭に代わって香春岳や船尾の鉱山における石灰石・セメント産業が脚光を浴びた時代もありましたが、こちらも平成不況の中でセメント需要が減退し、合理化を余儀なくされています。

国の合理化政策を受け、「脱・石炭」を模索した田川の半世紀ですが、根本的には石炭産業に代わるものが見つからないでいるのが現状。産業誘致を目論んで開発された市内最大の工業団地も、今になっても全ての区画が埋まりきらないと聞きます。炭鉱夫たちの日々の労働の疲れを癒したであろう古酒場の向こうを、日田彦山線のDCが通り過ぎる。なんだか田川にいると、「昔日の炭鉱街」みたいな感傷的なものばかり追い掛けていて、絵に華やかさとか楽しさみたいなものが見当たらなくなるのだが、それこそ私は坂田九十百翁が喝破した「筑豊のイメージとして、一種の先入観にとらわれる人たち」のうちの一人なのかもしれない。筑豊に行ってカメラを握れば、当たり前だが誰でも土門拳になるわけではない。ただ、どうしても「そういうもの」ばかり追い掛けてしまう。西成とか、山谷とか、それこそ黄金町とかさ。そういう方面に興味のあるカメラ持ちに共通の症状なんじゃないかな、とひとりごつ。

再びアーケードを歩いて、田川伊田の駅。近年改築されたようで非常にきれいで立派な造りをしている。大正浪漫の世界なのだろうか。聞けば、この駅舎の上階部は「田川伊田駅舎ホテル」としてドミトリーみたいになっていて、宿泊することが出来るらしい。駅前にはコミュニティバスとタクシーのロータリーがあるだけで、取り立ててなんもないですけど、駅に止まれる、と言うのは魅力あるね。寝台列車のB寝台を思わせる二段ベッドの部屋なんか、みんなで泊まったら楽しそう。ホントに泊まるだけのドミトリー形式だから設備も簡素でしゃれっ気はないけど、1人1泊4,000円くらいだし、筑豊地区を鉄道で旅歩くんだったら、交通アクセスや非日常的な体験と合わせて十分宿泊対象になって来るかと。朝起きて、窓を開ければ駅のホームという体験も悪くない。

そろそろ終わりに使づいてきた夏の九州旅。この日は小倉から新幹線で帰郷することになっている。土曜日の夕方、筑豊から博多まで戻って羽田へ飛ぶよりも、新幹線のEX予約で早割を効かせた方が安かったというのはあるのだが、どうも三日間で二回も飛行機乗るのがあんま好かん、という個人的な理由もあった(笑)。田川後藤寺方面から、草むらをかき分けるようにしてやって来た日田彦山線の小倉行き。かつては急行はんだ、あきよし、日田、ひこさん、あさぎりと5種類もの急行が行き交い、由布院を中心にした大分県の内陸部と北九州・山口県西部を結ぶ動脈の一つでしたが、九州北部豪雨による土石流によってズタズタに寸断され、添田以南は結局鉄路として復活することはありませんでした。現在は、添田から先は線路が剥がされ、BRTがアスファルトで舗装された道を走り、県境の彦山トンネルを越えて久大本線の日田までを結んでいます。

靴を脱いでガラガラのボックスシートに足を投げ出し、ペットボトルのお茶を飲みながら、列車は雨上がりの筑豊の夕方を走り抜けていく。車窓から、石灰石の採掘で上半分がすっぱり切られた異様な形の香春岳と、山の麓のセメント工場を眺めていると、列車はタイフォンを大きく鳴らして金辺峠のトンネルに入って行きます。分水嶺のトンネルを出ると、右手には平尾台のカルスト地形とベンチカットされた山容が望まれて、ああ、日田彦山線は、香春岳や平尾台で産出する石灰石の輸送を目的として開設された白い動脈なんだなあ、ということが分かります。石原町を過ぎたあたりから徐々に乗客が増え、車窓は小倉の市街地・・・と言った感じに変化して城野から日豊本線へ入るのだが、ここで架線の下では少々鈍足なキハは日豊本線の普通列車に道を譲った。「小倉までお急ぎの方は日豊本線電車にお乗り換えください・・・」というアナウンスがあったが、あとは小倉から帰るだけだ。急ぐ旅でもないので、そのままにする。

北九州市の玄関口である小倉駅。駅に突っ込むように出入りするモノレールは北九州市が100%出資する第三セクターでの経営ですが、かつての西鉄北九州線の一部であった北方線を廃止して転換したものです。駅ビルの「アミュプラザ小倉」は、北九州モノレールを小倉駅の直上へ延伸させるために1998年に改築されたもの。上階がホテル(JR九州ステーションホテル小倉)であることは田川伊田と変わらないのだが、その規模が違い過ぎて笑ってしまう。駅前のビルにテナントとして入る、東京と何ら変わらない全国展開のチェーン店のラインナップ。駅前の賑わいの違いは、とても同じ県の出来事とは思えなくて、そう考えると福岡県って街の顔が非常に多彩だね。国際都市福岡、工業都市北九州、炭鉱都市筑豊、農業漁業の筑後。これが全部福岡県なんだもの。

西鉄貝塚線、西鉄天神大牟田線、西鉄太宰府線、西鉄甘木線。甘木鉄道、筑豊電鉄、平成筑豊鉄道。多々良川畔の名島、夕涼みの久留米、灼熱の太宰府、夏雲の学校前。平和を願う太刀洗、緑濃き今池、そして香春岳とボタ山の田川伊田。4事業者7路線、出自も違えば魅力も違う、夏の三日間の、福岡の思い出です。何だかダラダラと2か月近くに亘って書き連ねてしまいましたが、毎年夏の遠征ってのは何かをテーマにしてやる個人的なフィールドワークだと思っているのでご容赦願いたく。この歳になっても、まだ夏休みの自由研究をやっているようなもんだ。まとまりがなくて、提出が遅いのだけが難点だが(笑)。

小倉から乗車した「のぞみ64号」は、新幹線の東京までの最終ランナー。そういや、夏前に津軽に行った時も東北新幹線の最終だったなあ。どうしてもギリギリまで現地に滞在する貧乏根性は直らない。新横浜まで4時間ちょっと、折尾名物・東筑軒の「かしわめし」を食べながら、灼熱の三日間を振り返るのでありました。

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大いなる筑豊、日本を支えたエネルギー。

2024年10月26日 16時00分00秒 | 平成筑豊鉄道

(筑豊の中心地・田川へ@田川伊田駅)

降り出した雨の中を、筑豊の中心地・田川へ。田川伊田駅では、日田彦山線と連絡します。平成筑豊鉄道は、直方から金田を通って田川伊田までが伊田線、田川伊田から油須原を通って行橋までが田川線と路線名称が変わります。国鉄時代は田川線と伊田線で運行は分かれてたんですけど、基本的には直方から行橋までの通し運行となっているようです。ホームには、直方方面行きの列車を待つ乗客と、「炭坑節発祥の地」の看板。「♪月が出た出た月が出た、サノヨイヨイ」の炭坑節ですよね。子供の頃の盆踊りの定番ソングですけど、炭坑節って「♪月が出た出た月が出た、サノヨイヨイ」に続く歌詞は「♪三池炭鉱の上に出た」だよね?大牟田の三井三池じゃなくて田川なの?・・・と思って調べたところ、炭坑節は元々は田川の炭鉱夫たちに唄われていた「伊田場打撰炭節」という民謡が由来なんだとか。それが九州各地の炭鉱へ流行歌として伝わって行くうち、そこのフレーズが「♪三池炭鉱の上に出た」と変わった「九州炭坑節」というのが出て来まして、これが全国的に広まった結果「炭坑節=三池炭鉱が発祥」というイメージの原因となっているようです。と言う訳で、炭坑節発祥の地はここ田川市。覚えておきましょう。

田川伊田駅に進入する日田彦山線の小倉行きはキハ147系。キハ47系をチューンした改造車ですが、いかにも九州カラーの国鉄DCって感じでいいっすねえ。日田彦山線と伊田線の間のスペース、昔は貨車の入れ替えや機関車の付け替えとかをやってたんだろうな。残念ながらレールが剥がされ草生しておりますが・・・駅の背後の高台にある二本の煙突と大型の櫓は、旧三井田川鉱業所・伊田竪坑の第一・第二煙突と竪坑櫓でありますが、この煙突こそが炭坑節の「♪あんまり煙突が高いので」の高い煙突のこと。そうなると「九州炭坑節」の一部歌詞改変は前後の文脈が合わないということで罪深いな(笑)。ちなみに、ノーマルな「炭坑節」では、「♪月が出た出た月が出た、サノヨイヨイ」に続く歌詞は「♪ウチのお山の上に出た」になっていて、何だよ三池炭鉱関係ないじゃん!となるのですが。田川も三池も三井財閥資本の炭鉱でしたんで、ひょっとしたら人の行き来の中でそこらへんが伝播した、とかもあるかもしれないですね。

さて、田川伊田の駅で降りて、ちょっと街をぶらりとしながら先ほどの「高い煙突」の方に行ってみましょう。直方の街と同様に、伊田の街にも駅前アーケードがある。アーケードとしたらなかなかの規模だし、直方に比べればまだ商売をおこなっている店がちらほらとはあるようだけど、大方の店はシャッターを閉じて押し黙ったまま。寂しさを紛らわせるためなのか、シャッターには壁画のようなアート作品が描かれていたり、店はやってなくとも電飾(行灯)は切らさずに点灯していて、それなりにアーケードの中もきれいに保たれてはいます。それでもやはりそもそもの商売をやっている店の数の少なさと、歩いている人の少なさと・・・土曜の午後という一番のピークタイムでこんなものなので、これで「商店街」というのはなかなか厳しい。角の果物屋で来ない客をアテにもせず、椅子に座って売り物の果物を無造作に剥きながら話し込む近所の老店主たち。おそらくピークは昭和40~50年代、彼らがそれこそ働き盛りだった頃の30代が一番の賑わいであったろう伊田駅前のアーケード。彼ら世代が鬼籍に入るまでの命運だろうか。

日田彦山線の古いレンガのガードを潜って駅裏の小高い丘に登る。ここにあるのが「田川市石炭・歴史博物館」。高い煙突とキューロクがお出迎え。大牟田ではこの手の博物館を見る時間がなかったので・・・個人的に、こういう鉱山系の博物館って大好きなのよ。特に、筑豊地方の産炭の歴史というのには興味がありましたのでね。鉱山って、それこそ殖産興業の時代から鉄道を敷設する一番の理由みたいなとこあるし、鉱山の隆盛によって栄えるヤマの街の賑わいの歴史と文化の成り立ちを見るのも興味深いし、地中深く大地を穿つための、人間の英知を尽くした技術力の発展を見るのも面白いし。それと陰の部分って言うんですかねえ、あんまり大っぴらに言うことじゃないかもしれないけど、炭鉱夫の危険と隣り合わせの労働の刹那さとか、その苛烈な労働条件の中で起こる暴力と差別による今では考えられないような支配関係とか、主に中国人朝鮮人に対する使役とか、そういう後ろ暗いところも凄く興味深い。筑豊ってのは、炭鉱労働者たちが育んだ「荒くれ者でケンカっ早いが、宵越しの金は持たないキップの良さ」と、「義理人情の結び付き」を重んじた、ややもすると封建的な「川筋気質」という気風が強く残る、日本でも独特の地域だと思うので。

最盛期の筑豊炭田は、遠賀川とその支流の彦山川・穂波川に沿って、直方・飯塚・田川市を中心に鞍手郡・嘉穂郡・田川郡に渡る広大な地域に大小さまざまな炭鉱が存在し、九州のみならず日本の石炭産業の中核を成す存在でした。昭和49年に「田川郷土研究会」によって刊行された「筑豊石炭礦業史年表」の序章に、当時の田川市長である坂田九十百(さかた・つくも)氏がその序文を寄稿しているのだが、その内容が実に地元への思いと国のエネルギー政策に翻弄された時代の愛憎織り交ぜる名文となっていて、筑豊という地方の切なる思いに触れる内容となっているので、ご紹介したいと思います。

「筑豊炭田は明治中期以後、長い間我が国の石炭産出高の半ばを占めた最大の産炭地であり、国民経済への貢献は計り知れぬものがあった。富国強兵の国策に従って産業革命を遂行し、資本主義の急激な育成を図る中で、筑豊はエネルギー需要の増大に応じて採掘規模を拡大し、資本の成長を促進する基盤、また我が国産業の母胎となった。」
「資源に乏しい我が国にとって、エネルギーの自給自足が資本主義の形成に不可欠の条件であったことを思えば、筑豊の石炭は近代国家建設の原動力そのものであった。また、第一次世界大戦を契機にする産業界の目覚ましい膨張、太平洋戦争の遂行、戦後経済の復興など国運の帰趨(きすう)に関する非常事態を迎えるたびに、筑豊は常に生産能力の極限を発揮するよう要請されてきた。いいかえれば、戦争・事変のたびに筑豊は着目され生産の増大が期待されたが、平常時は世間の華やかな動向の陰にかくれてしまう地域であった」
「国民の一般的な筑豊に対する理解は、普通の地理的知識を出ないだけでなく、一種の先入観にとらわれる人も甚だ多かったように思われる。また合理化問題を契機として精緻に報道されるようになっても、一般に筑豊は大資本によって開発されてその恩恵を蒙り、戦時・戦後は特に優遇措置を受けて来たという見方は牢固としたものがあった」(田川郷土研究会「筑豊石炭礦業史年表・序」より 原文ママ)

ちなみに、世間一般の筑豊のイメージを印象付けているのが、土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」と、五木寛之の「青春の門」じゃないかと思っているのだがどうだろう。映画版のパンフレット、ボタ山と香春岳を背にした吉永小百合が美しい。当時の大ベストセラー本なので、当然ながら我が家にも全巻あったんだけど、父親の部屋の書棚から拝借して読んだのは中学生くらいの頃だっただろうか。どういう内容の作品か分からずに手に取って読んでしまったのだが、「思春期の苦悩」「暴力」「任侠」「在日朝鮮人」「エロス」「リビドー」みたいなエッジの効いたテーマがてんこ盛りで、この作品が筑豊のちょっと荒っぽくてざらざらした世界観のイメージを日本人に植え付けたんじゃないかと思っている。ベストセラーながら割と愛欲に塗れるような官能的な描写が多く、伊吹信介の生きざまは今思えば少々中学生には刺激がお強かったよなあ。何編まで読んだかは忘れてしまったが、もう一回読み返そうと思うには、あまりにも長編過ぎてしまってハードルが高い。

明治の殖産興業の時代から長き戦争の時代、そして戦後復興から高度経済成長期に至り、国がエネルギー政策を転換して石炭を半ば放棄する形で突き放すまでの一世紀。1955年(昭和30年)から6期24年に亘って市長を務め、全国市町村会の重鎮として「筑豊のドン」と呼ばれた坂田九十百氏の文章には、「筑豊は国の要請に応じて、それこそ煤まみれになってエネルギーを生み出してきたのに、なにゆえこうも評価されないのか、こうなってしまったのか」という複雑な思いが、知性を感じる流麗な筆致で切々と語られている。本来、明治維新の前から筑豊における石炭の採掘というものは、地元の名士による地場産業という形で、遠賀川流域に広がった穀倉地帯で営まれる農業と調和しながら育まれたものでした。それが、「殖産興業」という国策に乗って大手資本が筑豊に乗り込んだ結果、炭鉱の規模は巨大化して多くの労働者とその家族を集めるに至ります。その結果、町と炭鉱は確かに発展したけれど、その陰では炭鉱から流れ出す鉱毒を含んだ水によって農業は衰退し、都市開発や煤煙によって自然環境は破壊されてしまいます。衰退した農業分野からも炭鉱は多くの労働力を吸い込み、それによって石炭産業と筑豊地方の不可分な依存の関係性が形成されました。特に田川地域は最盛期に人口の60%が石炭産業とその関係者で占められ、そのために他の産業は何も発展しないという弊害を生み出します。大手資本による炭坑経営は、苛烈な労働条件に見合わない乏しい賃金によって、筑豊の人々の暮らしは必ずしも豊かにならず、度重なる炭鉱事故により一家の大黒柱を失った人々の補償問題や、待遇の改善を求めた多くの労働争議は、同じ筑豊の人々同士の無用な争いを招きました。そんな数多の矛盾と混沌と争いを抱えながら、労働力と経済を全て石炭産業に注ぎこんだ結果迎えた筑豊地方の結末を、当時の坂田市長はこう結んでいます。

「多面的な経済発展の方向を閉ざされ、地域の活力をすべて石炭生産に結集し、筑豊はただわが国の経済の土台となることに甘んじて来たのである。戦後の混迷をきり抜け漸やく安定した繁栄を目ざすべき時に至って合理化の直撃をうけ、地域社会の興廃に関わる問題に発展した。本来スクラップ・アンド・ビルドによって石炭鉱業を再編成し安定に導くべき石炭政策は、筑豊にとってはスクラップ・アンド・スクラップ以外の何ものでもなかった。石炭とともに生きてきた時代は終わりを告げたが、この未曽有の転換期に際会し私共はただ過去を懐かしみ現状を嘆くだけでなく、改めて筑豊にとって石炭産業とは何であったかと考えることに、新しい都市づくりの精神的拠り所を求めていかねばならない」

この「筑豊石炭礦業史年表」が編纂されたのは1974年(昭和49年)のこと。ちなみに坂田九十百氏は6期24年の田川市長を1979年に退職するのですが、退職金と合わせた私財1億円を自らの子供が理事長を務める財団に基金として放り込んでしまったそうだ。現在でも、対象になるのは若干名ではあるようですが、筑豊の若い子弟が学費で苦しまぬように、返還無用の奨学金を月額3万円支給しているらしい。そんな九十百翁の顕彰像がこの博物館の片隅に建てられているのだが、翁が市長を退いてから既に半世紀。筑豊は、「新しい都市づくりの精神的拠り所」を求められたのだろうか。なんとも罪深き、黒いダイヤのお話である。

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炭都筑豊、雨に滲んで。

2024年10月21日 23時00分00秒 | 平成筑豊鉄道

(筑豊の玄関口@直方駅)

遠賀川に沿って広がる直方市は、筑豊地方の玄関口とも言える存在の街。直方や飯塚を中心にかつては石炭というエネルギーで日本の近代化を支えた筑豊炭田は、石油へのエネルギー転換によってその役目を終えていますので、現在の直方は、北九州市や福岡都市圏のベッドタウンとしての役割が中心となりましょうか。駅は新しく建て直され、市の中心としての存在感を誇っていますが、かつての直方駅は石炭貨物用の多数の側線と、筑豊線区を走る気動車を統括する気動車区を擁し、筑豊の鉄道の要ともいうべき存在でした。今の駅舎が建っているスペースと広いバスターミナルも、以前は石炭やセメントを満載した貨車がたむろする側線の跡地。筑豊本線は、明治の殖産興業の時代から、筑豊炭田で産出された石炭を若松の港へ運び出す大動脈で、北海道の室蘭本線と同様に「黒いダイヤ」を運び続ける大きなうねりのような鉄道路線でしたが、現在筑豊地方に現役で残る鉄道貨物取り扱いは一つもありません。大きな日本のエネルギー政策の波に乗り、潮が引き、そして今がある・・・という、直方は、そんな栄枯盛衰の中の駅です。

昭和の時代の直方の街は「空飛ぶ雀も黒くなる」と言われたほど、炭鉱から出る石炭ガスを燃やす煙突の煙と、昼夜を分かたずひっきりなしに発着する石炭列車を牽引するSLの煙で、空が黒く煤けていたのだそうです。既に筑豊本線も篠栗線も電化され「福北ゆたか線」という愛称で地域輸送を担っていますが、直方駅構内には小さな気動車区があって、日田彦山線や後藤寺線を担当するキハ147形のねぐらになっていました。以前の直方気動車区は、駅の構内ではなく現在の新入(しんにゅう)駅の東側の広大な敷地にあり、昭和50年3月改正では最大143両もの大所帯を誇った九州有数の巨大気動車区でしたが、筑豊本線の電化に伴って気動車区は規模を縮小した上で現在の場所に移転したんだとか。大きな跡地は、現在はマックスバリュを中心にしたショッピングモールになっているみたいですね。

そんな直方駅の片隅に、平成筑豊鉄道のホームがあります。出炭目的のために網の目のように張り巡らされていた筑豊の鉄路から、旧国鉄の伊田線、糸田線、田川線の3線を転換した第三セクター路線。筑豊の鉄路では、日本一の赤字路線と悪名高き評判を誇った添田線とか、漆生線や上山田線、そして宮田線や香月線のような盲腸線に至るまで、半数に近い路線が廃止されてしまいました。しかしながら、早いうちから三セク転換をおこなっていたことで、それなりの筑豊の産炭路線が守られたということに、平成筑豊鉄道の大きな意味があるような気がしますね。設立当初から平成の中期まで、途中の金田駅から分岐していた三井鉱山鉄道のセメント輸送とかがあったので、そういう副次的な収入があったことも大きかったんでしょうが・・・

直方から田川後藤寺へ向かう単行のNDCに乗車し、後方の窓から流れて行く景色を見やる。直方から非電化ながらガッツリ複線。若松港に続いた黒いダイヤの道の一翼を担った国鉄の旧・伊田線ですが、その旺盛な運炭需要を見る思いがしますね。岩見沢から苫小牧までの室蘭本線も、今では超閑散線区の非電化路線ですけど、夕張や幌内から石炭を運ぶのに古くから複線なのと同じで、それだけエネルギーとしての石炭って大事だったんだよね。戦中から戦後間もなくの最盛期は、年間1,500万トンから2,000万トンの石炭を運んでいた筑豊の鉄路。石炭産業が斜陽化する昭和40年代前半まで、九州全体の石炭の出炭量のおよそ70%を運び続けていました。九州と一口に言っても、炭鉱は筑豊だけじゃなくて大牟田の三井三池だったり、長崎の池島や高島だったり、それなりに有力なヤマもあったと思うんだけど、それでも九州の石炭の70%というのだからすごい規模である。九州の石炭輸送のピークを迎えたのは1957年(昭和32年)で、年間2,013万トンの輸送記録が残っているのだけど、それが昭和50年代前半にはほぼ0になってしまうのだから、「国家政策」というのはつくづく残酷なものだ。

そんな筑豊の運炭路線・・・おそらく三井三池が掘り出していた田川坑を中心とした輸送を担っていた伊田線の中泉駅で下車してみる。平成筑豊鉄道に転換してから、沿線住民の利便性を高めるために多くの駅が新設されましたが、この駅は転換前の国鉄時代からの駅。駅舎の屋根や線路のバラストがどうにもざらざらと赤茶けていて、その中に白いものがパラパラと混じる感じの殺風景な色遣いが印象に強い。この全てのものがくすんだ色合いに包まれているこの感じが炭都・筑豊のそれであって、いかにもこのレールの上を走り抜けて行った石炭列車やセメント列車が落としていった石炭ガラやらセメントの滓が、落っこちたままそのままになっているような気がしてならない。平成筑豊鉄道に名誉のために言わせてもらえば、もちろん適正な時期に新しいバラストは散布しているのだろうけど・・・

そんなくすんだ色合いを破るかのように、鮮やかなディーゼルカーがやってきた。単行NDCが行き交うローカル三セク鉄道になってしまった今でも、運炭路線らしい遠くが見えなくなるくらいの有効長の長い構内は健在だ。剥がされた中線の枕木の跡もまだ鮮やかで、染み込んだクレオソートがそのままバラストに残っている。おそらくはC11や9600の運炭列車がこの中線に止まり、筑豊のヤマの男たちを乗せた上下の普通列車をやり過ごしたり対向の石炭列車を退避していたりするのだろう。昭和30年代の国鉄伊田線の時刻表を見ると、博多や小倉からの直通列車があったり、珍しいのは山口県の仙崎から関門海峡をくぐって現在の田川伊田まで運転された列車もあったようだ。普通列車だけでも一日で23~25往復程度の運転をしていた記録があって、これに石炭列車を加えるとそりゃ複線じゃないと捌けないよな、と思う結構な過密ダイヤである。

今にも泣き出しそうな空の下、中泉駅の待合室で次の列車を待つ。駅は無人駅だが、かつての駅員さんの詰めていたスペースが床屋さんに貸し出されており、店の中では店主が暇そうにテレビを見ていた。こんな感じの取り組み、駅を荒廃させないように・・・ということで、各地の三セクが良くやっているけど、効果ってどのくらいあるんだろう。天竜浜名湖鉄道なんかも積極的よね。まあ、入ってもらうからには駅の管理を込みでの格安の条件なのだろうし、テナントとして借りる側にもそれなりのメリットはあるのだろうけど。

行橋行きのNDCが到着し、私といつの間にか現れた地元の高校生が乗り込むと、空からとうとう雨が降ってきた。
泣きぬれて中泉、窓の外は陰に滲む雨の伊田線。これもまた趣である。

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