青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

大いなる筑豊、日本を支えたエネルギー。

2024年10月26日 16時00分00秒 | 平成筑豊鉄道

(筑豊の中心地・田川へ@田川伊田駅)

降り出した雨の中を、筑豊の中心地・田川へ。田川伊田駅では、日田彦山線と連絡します。平成筑豊鉄道は、直方から金田を通って田川伊田までが伊田線、田川伊田から油須原を通って行橋までが田川線と路線名称が変わります。国鉄時代は田川線と伊田線で運行は分かれてたんですけど、基本的には直方から行橋までの通し運行となっているようです。ホームには、直方方面行きの列車を待つ乗客と、「炭坑節発祥の地」の看板。「♪月が出た出た月が出た、サノヨイヨイ」の炭坑節ですよね。子供の頃の盆踊りの定番ソングですけど、炭坑節って「♪月が出た出た月が出た、サノヨイヨイ」に続く歌詞は「♪三池炭鉱の上に出た」だよね?大牟田の三井三池じゃなくて田川なの?・・・と思って調べたところ、炭坑節は元々は田川の炭鉱夫たちに唄われていた「伊田場打撰炭節」という民謡が由来なんだとか。それが九州各地の炭鉱へ流行歌として伝わって行くうち、そこのフレーズが「♪三池炭鉱の上に出た」と変わった「九州炭坑節」というのが出て来まして、これが全国的に広まった結果「炭坑節=三池炭鉱が発祥」というイメージの原因となっているようです。と言う訳で、炭坑節発祥の地はここ田川市。覚えておきましょう。

田川伊田駅に進入する日田彦山線の小倉行きはキハ147系。キハ47系をチューンした改造車ですが、いかにも九州カラーの国鉄DCって感じでいいっすねえ。日田彦山線と伊田線の間のスペース、昔は貨車の入れ替えや機関車の付け替えとかをやってたんだろうな。残念ながらレールが剥がされ草生しておりますが・・・駅の背後の高台にある二本の煙突と大型の櫓は、旧三井田川鉱業所・伊田竪坑の第一・第二煙突と竪坑櫓でありますが、この煙突こそが炭坑節の「♪あんまり煙突が高いので」の高い煙突のこと。そうなると「九州炭坑節」の一部歌詞改変は前後の文脈が合わないということで罪深いな(笑)。ちなみに、ノーマルな「炭坑節」では、「♪月が出た出た月が出た、サノヨイヨイ」に続く歌詞は「♪ウチのお山の上に出た」になっていて、何だよ三池炭鉱関係ないじゃん!となるのですが。田川も三池も三井財閥資本の炭鉱でしたんで、ひょっとしたら人の行き来の中でそこらへんが伝播した、とかもあるかもしれないですね。

さて、田川伊田の駅で降りて、ちょっと街をぶらりとしながら先ほどの「高い煙突」の方に行ってみましょう。直方の街と同様に、伊田の街にも駅前アーケードがある。アーケードとしたらなかなかの規模だし、直方に比べればまだ商売をおこなっている店がちらほらとはあるようだけど、大方の店はシャッターを閉じて押し黙ったまま。寂しさを紛らわせるためなのか、シャッターには壁画のようなアート作品が描かれていたり、店はやってなくとも電飾(行灯)は切らさずに点灯していて、それなりにアーケードの中もきれいに保たれてはいます。それでもやはりそもそもの商売をやっている店の数の少なさと、歩いている人の少なさと・・・土曜の午後という一番のピークタイムでこんなものなので、これで「商店街」というのはなかなか厳しい。角の果物屋で来ない客をアテにもせず、椅子に座って売り物の果物を無造作に剥きながら話し込む近所の老店主たち。おそらくピークは昭和40~50年代、彼らがそれこそ働き盛りだった頃の30代が一番の賑わいであったろう伊田駅前のアーケード。彼ら世代が鬼籍に入るまでの命運だろうか。

日田彦山線の古いレンガのガードを潜って駅裏の小高い丘に登る。ここにあるのが「田川市石炭・歴史博物館」。高い煙突とキューロクがお出迎え。大牟田ではこの手の博物館を見る時間がなかったので・・・個人的に、こういう鉱山系の博物館って大好きなのよ。特に、筑豊地方の産炭の歴史というのには興味がありましたのでね。鉱山って、それこそ殖産興業の時代から鉄道を敷設する一番の理由みたいなとこあるし、鉱山の隆盛によって栄えるヤマの街の賑わいの歴史と文化の成り立ちを見るのも興味深いし、地中深く大地を穿つための、人間の英知を尽くした技術力の発展を見るのも面白いし。それと陰の部分って言うんですかねえ、あんまり大っぴらに言うことじゃないかもしれないけど、炭鉱夫の危険と隣り合わせの労働の刹那さとか、その苛烈な労働条件の中で起こる暴力と差別による今では考えられないような支配関係とか、主に中国人朝鮮人に対する使役とか、そういう後ろ暗いところも凄く興味深い。筑豊ってのは、炭鉱労働者たちが育んだ「荒くれ者でケンカっ早いが、宵越しの金は持たないキップの良さ」と、「義理人情の結び付き」を重んじた、ややもすると封建的な「川筋気質」という気風が強く残る、日本でも独特の地域だと思うので。

最盛期の筑豊炭田は、遠賀川とその支流の彦山川・穂波川に沿って、直方・飯塚・田川市を中心に鞍手郡・嘉穂郡・田川郡に渡る広大な地域に大小さまざまな炭鉱が存在し、九州のみならず日本の石炭産業の中核を成す存在でした。昭和49年に「田川郷土研究会」によって刊行された「筑豊石炭礦業史年表」の序章に、当時の田川市長である坂田九十百(さかた・つくも)氏がその序文を寄稿しているのだが、その内容が実に地元への思いと国のエネルギー政策に翻弄された時代の愛憎織り交ぜる名文となっていて、筑豊という地方の切なる思いに触れる内容となっているので、ご紹介したいと思います。

「筑豊炭田は明治中期以後、長い間我が国の石炭産出高の半ばを占めた最大の産炭地であり、国民経済への貢献は計り知れぬものがあった。富国強兵の国策に従って産業革命を遂行し、資本主義の急激な育成を図る中で、筑豊はエネルギー需要の増大に応じて採掘規模を拡大し、資本の成長を促進する基盤、また我が国産業の母胎となった。」
「資源に乏しい我が国にとって、エネルギーの自給自足が資本主義の形成に不可欠の条件であったことを思えば、筑豊の石炭は近代国家建設の原動力そのものであった。また、第一次世界大戦を契機にする産業界の目覚ましい膨張、太平洋戦争の遂行、戦後経済の復興など国運の帰趨(きすう)に関する非常事態を迎えるたびに、筑豊は常に生産能力の極限を発揮するよう要請されてきた。いいかえれば、戦争・事変のたびに筑豊は着目され生産の増大が期待されたが、平常時は世間の華やかな動向の陰にかくれてしまう地域であった」
「国民の一般的な筑豊に対する理解は、普通の地理的知識を出ないだけでなく、一種の先入観にとらわれる人も甚だ多かったように思われる。また合理化問題を契機として精緻に報道されるようになっても、一般に筑豊は大資本によって開発されてその恩恵を蒙り、戦時・戦後は特に優遇措置を受けて来たという見方は牢固としたものがあった」(田川郷土研究会「筑豊石炭礦業史年表・序」より 原文ママ)

ちなみに、世間一般の筑豊のイメージを印象付けているのが、土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」と、五木寛之の「青春の門」じゃないかと思っているのだがどうだろう。映画版のパンフレット、ボタ山と香春岳を背にした吉永小百合が美しい。当時の大ベストセラー本なので、当然ながら我が家にも全巻あったんだけど、父親の部屋の書棚から拝借して読んだのは中学生くらいの頃だっただろうか。どういう内容の作品か分からずに手に取って読んでしまったのだが、「思春期の苦悩」「暴力」「任侠」「在日朝鮮人」「エロス」「リビドー」みたいなエッジの効いたテーマがてんこ盛りで、この作品が筑豊のちょっと荒っぽくてざらざらした世界観のイメージを日本人に植え付けたんじゃないかと思っている。ベストセラーながら割と愛欲に塗れるような官能的な描写が多く、伊吹信介の生きざまは今思えば少々中学生には刺激がお強かったよなあ。何編まで読んだかは忘れてしまったが、もう一回読み返そうと思うには、あまりにも長編過ぎてしまってハードルが高い。

明治の殖産興業の時代から長き戦争の時代、そして戦後復興から高度経済成長期に至り、国がエネルギー政策を転換して石炭を半ば放棄する形で突き放すまでの一世紀。1955年(昭和30年)から6期24年に亘って市長を務め、全国市町村会の重鎮として「筑豊のドン」と呼ばれた坂田九十百氏の文章には、「筑豊は国の要請に応じて、それこそ煤まみれになってエネルギーを生み出してきたのに、なにゆえこうも評価されないのか、こうなってしまったのか」という複雑な思いが、知性を感じる流麗な筆致で切々と語られている。本来、明治維新の前から筑豊における石炭の採掘というものは、地元の名士による地場産業という形で、遠賀川流域に広がった穀倉地帯で営まれる農業と調和しながら育まれたものでした。それが、「殖産興業」という国策に乗って大手資本が筑豊に乗り込んだ結果、炭鉱の規模は巨大化して多くの労働者とその家族を集めるに至ります。その結果、町と炭鉱は確かに発展したけれど、その陰では炭鉱から流れ出す鉱毒を含んだ水によって農業は衰退し、都市開発や煤煙によって自然環境は破壊されてしまいます。衰退した農業分野からも炭鉱は多くの労働力を吸い込み、それによって石炭産業と筑豊地方の不可分な依存の関係性が形成されました。特に田川地域は最盛期に人口の60%が石炭産業とその関係者で占められ、そのために他の産業は何も発展しないという弊害を生み出します。大手資本による炭坑経営は、苛烈な労働条件に見合わない乏しい賃金によって、筑豊の人々の暮らしは必ずしも豊かにならず、度重なる炭鉱事故により一家の大黒柱を失った人々の補償問題や、待遇の改善を求めた多くの労働争議は、同じ筑豊の人々同士の無用な争いを招きました。そんな数多の矛盾と混沌と争いを抱えながら、労働力と経済を全て石炭産業に注ぎこんだ結果迎えた筑豊地方の結末を、当時の坂田市長はこう結んでいます。

「多面的な経済発展の方向を閉ざされ、地域の活力をすべて石炭生産に結集し、筑豊はただわが国の経済の土台となることに甘んじて来たのである。戦後の混迷をきり抜け漸やく安定した繁栄を目ざすべき時に至って合理化の直撃をうけ、地域社会の興廃に関わる問題に発展した。本来スクラップ・アンド・ビルドによって石炭鉱業を再編成し安定に導くべき石炭政策は、筑豊にとってはスクラップ・アンド・スクラップ以外の何ものでもなかった。石炭とともに生きてきた時代は終わりを告げたが、この未曽有の転換期に際会し私共はただ過去を懐かしみ現状を嘆くだけでなく、改めて筑豊にとって石炭産業とは何であったかと考えることに、新しい都市づくりの精神的拠り所を求めていかねばならない」

この「筑豊石炭礦業史年表」が編纂されたのは1974年(昭和49年)のこと。ちなみに坂田九十百氏は6期24年の田川市長を1979年に退職するのですが、退職金と合わせた私財1億円を自らの子供が理事長を務める財団に基金として放り込んでしまったそうだ。現在でも、対象になるのは若干名ではあるようですが、筑豊の若い子弟が学費で苦しまぬように、返還無用の奨学金を月額3万円支給しているらしい。そんな九十百翁の顕彰像がこの博物館の片隅に建てられているのだが、翁が市長を退いてから既に半世紀。筑豊は、「新しい都市づくりの精神的拠り所」を求められたのだろうか。なんとも罪深き、黒いダイヤのお話である。


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 炭都筑豊、雨に滲んで。 | トップ | 夏の自由研究、完結す。 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (akmce1988)
2024-10-26 19:24:33
炭坑節は凄く良い歌ですよね!!(^O^)。私も、地元の佐賀県嬉野市の盆踊り大会に参加してた時に炭坑節を踊ってました(^O^)
返信する

コメントを投稿

平成筑豊鉄道」カテゴリの最新記事