今日の「田中利典師曰く」は、〈ドキュメンタリー映画「四万十~いのちの仕舞い」〉(師のブログ 2018.1.28 付)である。
※トップ写真は、映画のワンシーン。映画.com から、画像を拝借した
利典師は旧知の溝渕雅幸監督(生駒市在住)のドキュメンタリー映画「四万十~いのちの仕舞い」のパンフレットに、推薦文を書かれた。以下、その全文を紹介する。
ドキュメンタリー映画「四万十~いのちの仕舞い」
ドキュメンタリー映画「四万十~いのちの仕舞い」のパンフレットに、実は私の一文が掲載されている。本編の監督溝渕雅幸さんとは、3年前に取材を受けたNHKEテレの「こころの時代~花に祈る、山に祈る」で出会った。溝渕監督があの番組の回の、監督を担当をされていて知り合い、取材後も知友が続いた。
その監督のドキュメンタリー映画が新作「四万十~いのちの仕舞い~」。あろうことか、パンフレット掲載用の一文を依頼され、更に、2月には神戸と大阪で開催されるロードショーで、監督とのトークセッションも仰せつかっている。ありがたい御縁である。その一文を以下、紹介する。ちょっとだけ、パンフレット掲載文とはいじっているが…。
****************
「自然の摂理の中で生きている」 金峯山寺長臈 田中利典
命は循環する。「自然の摂理」である。それを私は美しいと考えている。この映画に登場する高知の四万十川…。その四万十の恵みである鮎も、ゴリも、そして春の桜も夏の蛍も、循環する美しい自然の一部として映し出される。
なにより主人公の、訪問在宅医療に生涯をかけ従事する医師小笠原望も、医師の訪問を受け在宅で人生の終焉を迎える患者さんたちも、その同じ命の循環の中で訥々と紹介されていく。それら全部が、たおやかな流れに身を横たえる四万十川流域の、自然の大きな営みの一部でしかないのだ。そう教えてくれているのではないだろうか。
だからこの作品を観賞する私たちは、人生の終焉の苦しみとか、訪問医療の大変さとか、在宅看取りの困難さとかに立ち尽くすのではなく、命を精一杯生ききって、自然の摂理に身を任すことへの「救い」を見いだす。
人は生きて、死ぬ…。小笠原医師でもどうすることも出来ない命の終焉。その命の終焉=「仕舞い」の現場で、懊悩することなく、自然のままに、命を全うする患者と、それに寄り添い続ける訪問医の日常。
小笠原医師の活動は菩薩の如く清浄しいが、たんたんと映し出される終末医療の生々しい現実に、命のはかなさと、たった一つしかない自分の命の、かけがえのなさが描き出される。何より、看取られて逝くばあちゃんたちの息づかいが、強く私の心を打つのだった。
「自然の摂理」と書いたが、この自然は欧米世界がいうところのnatureではない。人間に隷属する環境自然のnatureではなく、「おのずからあるもの」として存在する自然である。「おのずからあるもの」が日本人の自然なのだ。
人の生も「おのずからあるもの」であるなら、人の死もまた「おのずからあるもの」である。人生の終焉とは「おのずからあるもの」に帰って行くだけなのだ。
以前は日本中がそうだった。自然豊かな田舎が自然から疎外された大都会に変わり、物質文明の過度な発展の中で自然環境の破壊が急進して、自然へのまなざしも今は変わった。自然を畏怖する心も消えた。そしてそれにつれて命の終焉の場面やその様相も大きく変化して行ったのかもしれない。
しかしながら大自然の循環と恵みが希有な形で今に残る四万十川と、その流域に生きる人々。そして慈悲深き訪問医の活動を通じて、忘れかけていた何かを思い出すことになるだろう。「自然の摂理」として人生の終焉を迎え入れることの大いなる救いとして…。
*************
私のこの一文を通じて、少しでもこの映画の素晴らしさが人々に届けばと切に願うものである。
※トップ写真は、映画のワンシーン。映画.com から、画像を拝借した
利典師は旧知の溝渕雅幸監督(生駒市在住)のドキュメンタリー映画「四万十~いのちの仕舞い」のパンフレットに、推薦文を書かれた。以下、その全文を紹介する。
ドキュメンタリー映画「四万十~いのちの仕舞い」
ドキュメンタリー映画「四万十~いのちの仕舞い」のパンフレットに、実は私の一文が掲載されている。本編の監督溝渕雅幸さんとは、3年前に取材を受けたNHKEテレの「こころの時代~花に祈る、山に祈る」で出会った。溝渕監督があの番組の回の、監督を担当をされていて知り合い、取材後も知友が続いた。
その監督のドキュメンタリー映画が新作「四万十~いのちの仕舞い~」。あろうことか、パンフレット掲載用の一文を依頼され、更に、2月には神戸と大阪で開催されるロードショーで、監督とのトークセッションも仰せつかっている。ありがたい御縁である。その一文を以下、紹介する。ちょっとだけ、パンフレット掲載文とはいじっているが…。
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「自然の摂理の中で生きている」 金峯山寺長臈 田中利典
命は循環する。「自然の摂理」である。それを私は美しいと考えている。この映画に登場する高知の四万十川…。その四万十の恵みである鮎も、ゴリも、そして春の桜も夏の蛍も、循環する美しい自然の一部として映し出される。
なにより主人公の、訪問在宅医療に生涯をかけ従事する医師小笠原望も、医師の訪問を受け在宅で人生の終焉を迎える患者さんたちも、その同じ命の循環の中で訥々と紹介されていく。それら全部が、たおやかな流れに身を横たえる四万十川流域の、自然の大きな営みの一部でしかないのだ。そう教えてくれているのではないだろうか。
だからこの作品を観賞する私たちは、人生の終焉の苦しみとか、訪問医療の大変さとか、在宅看取りの困難さとかに立ち尽くすのではなく、命を精一杯生ききって、自然の摂理に身を任すことへの「救い」を見いだす。
人は生きて、死ぬ…。小笠原医師でもどうすることも出来ない命の終焉。その命の終焉=「仕舞い」の現場で、懊悩することなく、自然のままに、命を全うする患者と、それに寄り添い続ける訪問医の日常。
小笠原医師の活動は菩薩の如く清浄しいが、たんたんと映し出される終末医療の生々しい現実に、命のはかなさと、たった一つしかない自分の命の、かけがえのなさが描き出される。何より、看取られて逝くばあちゃんたちの息づかいが、強く私の心を打つのだった。
「自然の摂理」と書いたが、この自然は欧米世界がいうところのnatureではない。人間に隷属する環境自然のnatureではなく、「おのずからあるもの」として存在する自然である。「おのずからあるもの」が日本人の自然なのだ。
人の生も「おのずからあるもの」であるなら、人の死もまた「おのずからあるもの」である。人生の終焉とは「おのずからあるもの」に帰って行くだけなのだ。
以前は日本中がそうだった。自然豊かな田舎が自然から疎外された大都会に変わり、物質文明の過度な発展の中で自然環境の破壊が急進して、自然へのまなざしも今は変わった。自然を畏怖する心も消えた。そしてそれにつれて命の終焉の場面やその様相も大きく変化して行ったのかもしれない。
しかしながら大自然の循環と恵みが希有な形で今に残る四万十川と、その流域に生きる人々。そして慈悲深き訪問医の活動を通じて、忘れかけていた何かを思い出すことになるだろう。「自然の摂理」として人生の終焉を迎え入れることの大いなる救いとして…。
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私のこの一文を通じて、少しでもこの映画の素晴らしさが人々に届けばと切に願うものである。