tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

奈良県には公的な「通史」がない、歴史博物館もない!

2025年04月04日 | 日々是雑感
「これは知らんかった、えらいこっちゃ!」。奈良県には、全国で唯一、公的な「通史」がないそうです。そのため、古文書などの史料が散逸(さんいつ)しているのだとか。
※トップ写真は、県立図書情報館の収蔵庫(ほぼ満杯)。毎日新聞の記事サイトから拝借

また以前から指摘されているとおり、県内には、旧石器時代から現代までを紹介する「歴史博物館」もありません。「日本人の心のふるさと」と言われ、3つの世界遺産を誇る奈良県が、こんな状態で良いのでしょうか? 以下、毎日新聞のニュースサイト(2025.3.31 9:00配信)から紹介します。

古文書が消失のピンチ 文化財抱える奈良県、廃棄が進む独特の理由
旧家の蔵などに保管されている古文書が近年、かつてない速度で失われている。集落に多くの古文書が保管されている奈良県内でも、過疎や世代交代で屋敷や蔵が取り壊されるたびに大量の古文書が消えていくという。膨大な埋蔵文化財や全国最多の国宝仏像など数多くの文化財を抱える県内だからこそ、こうした文書(もんじょ)に重きが置かれなかった独特の理由があるという。【稲生陽】

「史料を守れないことは『歴史学の敗北』。我々は常に敗北し続けていると言える」 そう話すのは、2022年から県と協力して地域の古文書の所在確認調査を進めている奈良大学の木下光生教授。「過去を知ることは今を知るために必要だ」をモットーに、現代にもつながる近世の貧困対策を掘り起こす研究を続けている。

個人保管は限界
木下さんも古書店やネット競売で見かける古文書の多さを懸念している。ひとつの文書がばらばらにされて出回っていることもあり、「従来のコミュニティーが崩れ、今や最終段階」と嘆く。だが、「こうした史料の保管を個人に押しつけて『タダ乗り』してきた」側面もあるのは事実だ。

せっかく数百年保管されてきた文書も、年老いた所有者から「もう限界」と相談を受けるという。「古い家もまだ多く残る県内で何もしなければどんどん捨てられるだろう。だが、我々が『処分しないで』なんて言えない。行政の関与が必要だが、史料を保管しようとする意志も支援策も足りていない」

全国で唯一、公式「県史」なく
県内ではなぜ史料が積極的に保管されてこなかったのか。複数の専門家が挙げるのは、公式の「県史」が作られず、各市町村史の編さんに使われた地域の古文書もその後は放置されてきた事実だ。

図書館などで目にする「奈良県史」(全18巻)は、実は1984~99年に当時東京にあった出版社「名著出版」(現在は大阪)が発行した100%民間の著作。編集委員会は各巻末で公式の県史がない状況を憂えて発行したと説明しているが、歴史舞台にあまり登場しない近世以降への言及は乏しい。県が関わっていないことから、編さんで集めた史料を保管・研究する「文書館(もんじょかん)」も作られなかった。

県によると、こうした公式の都道府県史が作られていないのは全国で奈良だけという。県文化財課の山田淳平主査は「歴史が長く史料が膨大になってしまうことに加え、埋蔵文化財や国宝級の古代の遺物が多く、近世の歴史にあまり目を向けられなかったためではないか」と推測する。

18年に採用された山田さんは、文書専門の学芸員資格を持つ県職員第1号だ。22年からは奈良大などと協力し、県内の各市町村史編さんに使われた古文書全2875件の行方を追っている。23年度までの2年間では530件の行方を調べ、88件の現存を確認。中には「現存しない」「行方不明」と回答した所有先を訪れて見つけたケースもあった。さらに59件の所有者から「現存する」と回答を得た。

だが、まだ79件が確認できないままで、残りの304件の大半は所有者が連絡不能になっているという。山田さんは「全ての行方を調べるには数十年かかる。県史編さん事業があれば調査も大きく進むだろうが、今のところ予定はありません」と肩を落とした。

足りない収蔵庫
県内の図書館の中心である県立図書情報館(奈良市)は、行政文書を保管する「公文書館」としての役割も持つ。寄贈を受けた古文書のデジタル保存にも取り組んでいるが、他の蔵書と共通の収蔵庫がほぼ満杯のため、積極的な資料収集はできていない。

同館職員で、県内唯一の認証アーキビスト(国立公文書館が認定する文書保存の専門資格保持者)でもある佐藤明俊さん(57)は「県史がない分、系統立てて収集・調査できていないのは確か。図書館も兼ねる我々には収蔵庫も足りない」と話す。

佐藤さんら文書担当の職員5人はいずれも会計年度任用職員(自治体における非正規職員)で、大半は窓口業務を兼務している。専門の文書館・公文書館でなく予算も人も足りないことから、公文書でも古い史料は抜けが目立つという。

「デジタル画像残せれば」
奈良県は国宝・重要文化財の数でも東京、京都に次ぐ歴史の主要舞台だが、地域に残るこうした歴史の証拠が次々消えていく流れは止められそうにない。山田さんは「現物が残るのが一番だが、せめてデジタル画像を残せれば、それだけでも全く違う。捨てる前に相談してほしい」と話している。
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田中利典師の「IT遍歴」

2025年04月03日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈時代が私を追い越していく…〉(師のブログ2018.12.23 付)。利典師がパソコンを始めたのはこの30年ほど前だから、1988年頃と、とても早い。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)

私もこの頃には勤務先で、MS-DOSのパソコンをモタモタと使っていたが、個人で購入したのは1994年10月で、富士通の「FMV DESKPOWER」(Windows 3.1)だった。

PowerPointを使い始めたのも、師は1999年というから、これも相当早い。勤務先ではプレゼン用に、この頃から使い始めていたが、私が自分でPowerPointで資料を作れるようになったのは、この5~6年後のことだ。その頃(2005年11月)、当ブログもスタートさせた。師のブログは2006年4月にスタートされたから、ほぼ同時期である。

この時代を生きた者は、パソコン(OS、ソフト、本体)やSNSの発展とともに歩んできたわけで、毎朝、日経新聞を開くと新しい情報が掲載されていて、それに振り回されていたことを懐かしく思い出す。師は「時代が私を追い越していく…」とお書きだが、今もシッカリと時代に付いていっておられる。では師のブログから、その「IT遍歴」を追ってみる。

「時代が私を追い越していく…」
もう30年くらい前からパソコンをやりはじめた。最初はエプソンの互換機(DOS / V 機)を買った。MS-DOSの時代である。悪戦苦闘の毎日だった。まだ若かったしねえ。本山のOA化はほとんど私の先見である。

そのうち、ウインドウズがでてきて、あっという間に、世間を接見した。アップルとウンドウズと、せめぎ合っていたが、大衆派の私はウインドウズへ。アップルにしとけばと、いまもたまに思う。携帯もいまなお、アンドロイドなのはそのせい…。

講演会でパワポを使ったのが平成11年(1999年)。近鉄の社長や重役の前での講演だった。えらい驚かれたことを覚えている。坊さんがパワポを使うというのが珍しかったし、パワポ自体がまだまだ目新しい時代だった。もういまや誰でも使っているのだが…。

指南役に恵まれたのがありがたい。私自身はちょー文系な人間なので、ほんとはパソコンのことは未だにさっぱりわからん。あんなものは使えたらいいんだ、って思っていて、パソコン教室に通ったわけでもなく、指南役に聴き倒して、使ってきた。一昨年はじめてエクセルを習いに職業訓練所主催の教室に通ったが、エクセルは普段から使わないので、やはり習っても使わないからもうすっかり忘れてしまった。

ネットデビューもそういう意味では早かった。パソコン通信時代にデビューした。そのときに繋がった友人とはいまもまだ繋がっている人も多い、掲示板、ブログから、ホームページなども早く、平成8年頃には自分のサイトを作って貰ったし、SNSも早かった。

ミクシイ、ツイッター、フェイスブック、そしてライン…。スカイプもやったし、いまは音声入力のSimplenoteも使い始めている。ともかく、最初は時代の先の方を走っていたつもりだったのだ。だがしかし、とうとう、時代に私はついていけないようだ。そんなことを実感している今日この頃である。

世の中、変わったが、パソコンの世界ほど爆裂的に変わったものはないかもしれない。そんな世界になんとかしがみついてきたはずなんだけれど、さすがに時代は還暦過ぎのおじさんを置いていってしまっていたようだ…。本山で使わせて貰っているノートパソコンのリースが切れるので、自分で購入することになり、エプソンの互換機以来、はじめて、ショップでうろうろしてみて、実は途方に暮れている。(>_<)



※上の写真は、最初に買ったエプソンの互換機。懐かしい…。あの頃、100MBのハードディスクで、確か、13万円くらいしたもんなあ。
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県内35の芭蕉句碑と、奈良を詠んだベスト10句/奈良新聞「明風清音」第116回

2025年04月02日 | 明風清音(奈良新聞)
先月(2025.3.29)の『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』(テレビ朝日系 午後6時30分~10時)では、「教科書が変わる !? 戦国時代ヤバい新説スペシャル」を放送していた。「TVでた蔵」には、
※トップ写真は、磯村洋一さん。「私の推し」のプレゼン大会(2025.2.24付)で

歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。2位は「俳句はカモフラージュ 松尾芭蕉は忍者だった!?」。周真くんが松尾芭蕉忍者説について解説した。

根拠1つ目は「足腰強すぎ!!歩行距離1日50km!」。おくのほそ道の総移動距離2400キロを5か月で踏破した。厳重な関所も難なく通過しているため幕府から通行手形をもらっていた可能性があると指摘した。

根拠2つ目は「敵地仙台で句会を開かずコソコソ」。地方の俳人と句会を開いていた芭蕉は仙台では開かなかった。松島を詠んだ句は弟子が作ったものと言われている。幕府は仙台藩に日光東照宮修繕のため莫大な費用を負担させ、仙台藩は不満が募っていた。仙台藩で忍者とバレるのを恐れた芭蕉がコソコソしていたのではと指摘した。


芭蕉が忍者だったとは、大胆な仮説であるが、ものすごい距離を移動していたことは、よく知られている。伊賀上野(三重県伊賀市上野赤坂町)出身の芭蕉は、約6回、奈良県に足を運び、たくさんの俳句を詠み、句碑も県内に35基が立つ。そのことを私は、磯村洋一さんの発表で知った。ぜひ、皆さんにも紹介したいと思い、奈良新聞「明風清音」(3/20付)に寄稿した。以下、全文を紹介する。

奈良県内の芭蕉句碑
興味深い話を聞いた。2月24日、奈良まほろばソムリエの会が会員向けに毎年実施している「私の推し」のプレゼン大会(研究発表会)で、「大和路の芭蕉句碑を巡る」という発表があった。発表者は同会会員の磯村洋一さん(大和高田市在住)。磯村さんは会社に勤務されながら、観光ボランティアガイドとして、また講演会の講師として活躍されている。

会の案内状には〈松尾芭蕉は生涯の後半の10年は江戸を離れ旅に出て、6回ほど「大和行脚」を行いました。『野ざらし紀行』や 『笈(おい)の小文』の紀行文の中で大和を詠んだ句碑を紹介しながら、句に込められた芭蕉の思いに触れていきます〉。奈良県内には芭蕉の句碑が35もあり、それを建碑順に紹介された。以下、当日の資料から引用する。

(1)春の夜やこもり人床し堂の隅(長谷寺参道・崇蓮寺境内)
(2) 菊の香や奈良にはふるき佛達(奈良市東木辻町・称念寺)
(3) さくらがりきとくや日々に五里六里(五條市・桜井寺)
(4) 綿弓や琵琶に慰む竹の奥(葛城市竹内・綿弓塚)
(5) けふばかり人も年よれ初時雨(大和郡山市・良玄禅寺)

(6) くたびれて宿かる比(ころ)や藤の花(天理市三昧田町)
(7) 花ざかり山は日比(ひごろ)の朝ぼらけ(吉野山・下千本)
(8) 梅が香にのつと日の出る山路かな(宇陀市榛原・宗祐寺)
(9) 若葉して御目の雫(しずく)拭はばや(奈良市・唐招提寺)
(10) 奈良七重七堂伽藍(がらん)八重ざくら(奈良市・若草山麓)

(11) 露とくとく試に浮世すすがばや(吉野山・苔清水)
(12) 芳野にてさくら見せうぞ檜木(ひのき)笠(吉野山・下千本)
(13) 世にさかる花にも念仏まうしけり(大淀町・世尊寺)
(14) 春もややけしきととのふ月と梅(奈良市月ヶ瀬梅林)
(15) 春の夜はさくらに明てし舞けり(桜井市・来迎寺)

(16) 猶見たし花に明行(あけゆく)神の顔(御所市・一言主神社)
(17) 水取や籠りの僧の沓(くつ)の音(奈良市・東大寺二月堂下)
(18) 僧朝顔幾死(いくし)にかへる法(のり)の松(葛城市・當麻寺中之坊)
(19)うぐいすを魂(たま)に眠るか嬌柳(たおやなぎ)(天理市・在原神社)
(20)飯貝や雨に泊りて田螺(たにし)きく(吉野町・本善寺)

(21)雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠かな(吉野町・細峠)
(22)龍門の花や上戸(じょうご)の土産(つと)にせん(吉野町・竜門滝前)
(22)酒のみに語らんかかる瀧の花(同右。1つの碑に2句)
(23)ほろほろと山吹ちるかたきの音(川上村・大滝茶屋前)
(24)碪(きぬた)打ちて我にきかせよや坊が妻(吉野山・東南院)
(25)御廟(ごびょう)年経て忍は何をしのぶ草(同・如意輪寺)

(26)木の葉散(ちる)桜は軽し檜木笠(同・金峯神社)
(27)春雨のこした(木下)につたふ清水哉(同・苔清水)
(28)はなのかげうたひ(謡)に似たるたび寝哉(吉野町平尾)
(29)(6)と同句(橿原市北八木町)
(30)うち山やとさま(外様)しらずの花ざかり(天理市・内山永久寺跡)

(31)ぴいと啼(な)く尻声悲し夜の鹿(奈良市・春日大社)
(32)蛤のふたみに別行(わかれゆく)秋ぞ(下市町・中央公園)
(32)みのむしのねを聞にこよ草の庵(いお)(同右。1つの碑に2句)
(33)夏草や兵共(つわものども)が夢の跡(下市町・中央公園)
(34)馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな(同右)
(35)(10)と同句(奈良市・なら100年会館)

句碑は以上であるが、磯村さんはご自身の「推しの10句」も紹介された。うち9句は句碑にある(2)、(3)、(4)、(6)=(29)、(9)、(10)=(35)、(11)、(17)、(25)で、もう1句は「初雪やいつ大仏の柱立て」(大仏さまに降りかかる初雪を見て「いつ大仏殿が完成するのだろうか」と悲しんだ句)だそうだ。

磯村さんは「このリストにない県内の芭蕉句碑をご存じの方は、ぜひご教示ください」と呼びかけている。ご存じの方は、奈良まほろばソムリエの会(info@stomo.jp)まで、ご連絡をお願いいたします。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事、きき酒師)


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田中利典師の「ダライ・ラマ法王への謁見記」

2025年04月01日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、〈ダライ・ラマ法王さまに謁見〉(師のブログ 2018.11.23 付)。師はお仲間約10人と、法王との謁見を果たされたのである。では、ブログ記事の全文を以下に紹介する。
※トップ写真は、ウチの近隣公園の桜(コロナ禍の2020.3.30 撮影)

「ダライ・ラマ法王さまに謁見…」
もう30数年まえに、ブッダガヤでのインド大仏落慶法要でお見かけしたのがダライ・ラマ法王さまとの出合いだった。その後、11年前に、皇學館大学で開かれた「伊勢国際フォーラム」の立ち上げで、ご一緒して、そのときは親しく謁見をしていただいた(あのフォーラム、なぜか私も発起人の一員となっていたけど、なんでだろう…)。

全日本仏教青年会協賛で開催した法王さまの東大寺法話会でもご一緒したが、今回は久しぶりに法王さまの自室にお招きを受けて、謁見をさせていただいた。もちろん、今回は「法王 平安・平和への祈り in 福岡」の主催団体であるスーパーサンガの一員として、当会代表の吉田正裕大聖寺座主や前代表の林先生など、仲間10名ほどと一緒にお部屋に入れて戴いたのである。昨年体調を崩されたと聞いていたが、思いの外、お元気な様子に安心した。

謁見では、「日本のお坊さんはもっと仏教と勉強しなさい」と繰り返し、おっしゃっていた。なぜか、法王のお話の視線がちょうど斜め前に座った私に向けられ、まるで私に対して叱っておられるようで、恐れ多くて、何度も視線を外したが、外しても外して、何度も視線が送られてきて、「なぜ、私の不勉強、私の不徳をしってはんのやろ?」と、「参りました!」と思った次第…。もちろん私にだけおっしゃったわけではないけれど、このときの法王の視線は生涯忘れられないだろう。

9時半から博多市内の東長寺本堂で行われた、諸災害物故者慰霊合同法要ではスーパーサンガを代表して役員の皆さんとともに内陣で出仕させていただき、引き続き行われた法王の法話会にも随喜させていただいた。

実は朝の接見のときにも、なにか質問は?と法王事務局から言われ、今回も法話会のあと、聴講者に質問が投げかけられた。私は、「私だったらなにをお聞きするのだろうか」と自問自答していた。そしてふと思いついたことがあった。でも、これって政治的にも少々微妙な問題だし、法王様にも迷惑がかかるかもしれないなあと想いながら、でも、これってみんな聞きたい質問じゃないかなあと思っていた。

とはいえ、たくさんの聴衆の中で、手を挙げてまでお聞きするようなことでもないと思い直し長い法話会を過ごしていたが、私の隣に座っていたSSの大西龍心さんが突然マイクをもって、質問をされたのである。「え、これって次はおまえが聞けよ」って言われているようなものだと、勝手に解釈した。それで質問を終えた大西さんからマイクを受け取り、思い切って質問をさせていただくことになった。

「法王さまは今生をこの地球に生まれて良かったとお思いですか?そして次も、喜んでこの地球・娑婆世界に帰って来ていただけますか?…」という、不躾で、とてもまっすぐな質問であった。

法王さまは「私は普段から、この世で解脱出来ない衆生がいるかぎり、衆生済度のために六道を輪廻する…という、ナーガルジュナの『宝行王正論』に出る祈願文をお唱えしている 」とのお答えであった(中継映像はなぜかもうネット上から消滅していますが(^_^;))。

質問へのお答えをいただいたような、通訳がちゃんと伝えていないのかなと思えるような、そんなお答えであったが、まあ、それはそれでそういうものだとは想いながら、今回の御縁に深く感謝をしていたのであった。

「私は来世もこの娑婆世界に生まれ、衆生済度をします!」という法王さまのお言葉を聞きたかったのは私一人ではないだろうけど…。
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72歳の 中学クラス会

2025年03月31日 | 日々是雑感
中学校のクラス会(九度山中学校第22期生同級会)が先週の土曜日(2025.3.29)、和歌山県橋本市神野々(このの)の「ゆの里」で開催された。参加者は45人(A~D組までの4クラス)。年齢は概ね72歳だ。
※トップ写真中央は岡本章(あきら)くん(九度山町長)。冒頭挨拶し、乾杯の音頭を取った

出席者はそれなりに元気ではあるが、特に男性は老けて見える。頭髪が白くなったり寂しくなった人が多いのと、あとは肥満。それに比べて女性たちは若々しいし、活発な人が多い。お洒落もしている。それらの結果が、寿命に影響するということなのだろう。

しかも配られた名簿を見て、驚いた。物故者が10人もいたのである(男性7人、女性3人)。そのうち5人は比較的最近亡くなったようであるが、故郷を飛び出した私は、全く知らなかった。前回のクラス会からは10年以上が経過しているので、やはり60歳を超えると、物故者も増えるのだ。そういえば私の会社の同僚も昨年、不摂生な生活を続け、67歳で心筋梗塞のため急逝した。

当日の欠席者からはコメントが届いていて、そこには「体調が芳しくありません」「足腰が痛くなって」「気持ちは若いですが、体は80歳代です」「メニエール病(内耳が原因のめまい)で体調不良のため」「腰の具合が良くないので」等々。

昨日(2025.3.30)は当ブログで、田中利典師の「死生観」を紹介したが、やはりこのトシになると、「死」が近づいていることを実感する。だから次回のクラス会は「2年後」に開催するそうだ。私は「隔日断酒」のおかげで肝機能がV字回復したので、まあ2年は大丈夫だろう。

この日は私が編集に関与した共著書をお1人に1冊ずつ進呈したが、次回が2年後なら今、着手している新著を早く仕上げなければ…。その「時間との戦い」がボケ防止になるのなら、頑張り甲斐もあるというものだ。

同級生の皆さん、2年後の再会を楽しみにしています!
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