澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

186歳!が戸籍上生存の裏側を考える

2010年08月26日 19時44分17秒 | 社会

  このところ毎日、戸籍上の高齢者が次々と見つかっている。
  今日、見つかったのは何と186歳、1824年生まれだというから驚く。アヘン戦争が1840年、明治維新が1868年、戸籍法制定が1871年、日清戦争1895年、日露戦争1905年、日韓併合1910年……このように書いてくると、怠慢なお役所仕事を批判するブログだと誤解されるかも知れない。だが実は、全く別の感想を抱いている。
 
 国から委任された戸籍事務を所管する市区町村では、恣意的な判断で戸籍の登録抹消を行うことはできない。186歳の人物が戸籍上抹消されていないからと言って、それが直ちに「役所の怠慢」になるという性質のものではない。愚かなマスメディアは、またまた公務員攻撃の素材に使おうとしているようだが、見当違いも甚だしいと言っておく。

 そもそもこの戸籍制度は、世界に類を見ないものだ。戸籍があるのは、日本、台湾、韓国(及び北朝鮮)だけのはず。「大日本帝国」の版図だった地域だ。
 戸籍は、家族制度を維持し、国家が国民を管理する道具として使われたという。例えば、「戸籍って何だ―差別をつくりだすもの」(佐藤 文明著 下記参照)は、戸籍制度を批判する立場から書かれている。

 そうした批判があることを承知の上で、私が感心したことがある。それは、186歳の人であろうとも、手続きが未了であれば、きちんと戸籍に残してあったことだ。もし、他の国であれば、こんなに律儀に一貫して戸籍事務を続けられるのかどうか。例えば、米国にはもちろん戸籍などなくて、州単位の住民登録があるだけだ。186年前に生まれた市井の一人物のことなど、米国では調べようとしても調べられるはずもない。

 毀誉褒貶がある戸籍制度だが、日本という近代国家を造った礎であったことは疑いのない事実だ。東京の下町でも、地方の寒村でも、どこでも均質で公正な事務処理が行われていた。これは法治主義の原点でもある。一見些細に思える、このような当たり前の事象が、近代日本を支える力であったことを忘れてはならないだろう。


ついに186歳!文政7年生まれ「戸籍上生存」 8月26日18時18分配信 読売新聞

 高齢者の所在不明問題で、山口県防府市で26日、文政7年(1824年)に生まれた186歳の男性が戸籍上、生きていることになっていることが判明した。
 同県光市で165歳の男性、同県周防大島町で164歳男性がそれぞれ、戸籍に残っていることもわかった


プロブレムQ&A 戸籍って何だ―差別をつくりだすもの
佐藤 文明
緑風出版

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福田康夫・元首相が中国に加担する理由

2010年08月26日 14時27分28秒 | 台湾

 「台湾の声」に「福田康夫は中国の歴史捏造に加担するな~いよいよ本格化する”孫文”キャンペーン」という記事が掲載されている。
 孫文と言えば、日本との関わりも深く、中国大陸でも台湾でも共に近代中国を誕生させた政治家として高く評価されている。
 
 だが、この記事にあるように、孫文という人物は、単純には捉えがたい人物でもある。今風に言えば、ポピュリズムの政治家という側面も強く、言行不一致の人という印象も強い。
 
 福田康夫・元首相が「孫文」キャンペーンに一役買っているようだが、気づいたことがある。福田は早稲田大学政経学部卒だが、早大在学中に安藤彦太郎(故人、元政経学部教授)という中国礼賛派の教授と接点があったのではないかという点だ。
 安藤は孫文の「三民主義」の訳者であるが、学者というよりも「日中友好運動」が専門のような左翼教授だった。「中国経済論」という科目を教えていたが、実際の内容は、マルクス主義の立場に立つ中国礼賛論に過ぎなかった。「私学の雄」とか自負しながら、その教育内容は極めてお粗末であるという典型がそこにあった。
 福田康夫が「孫文」キャンペーンに加担する背景のひとつには、こういう早大人脈があることはほぼ間違いない。 
 
 中国人に最もよく知られた日本の大学は、東京大学ではなく早稲田大学だそうだ。温家宝首相も早稲田大学を訪れたことがあるように、まさに「日中友好」の拠点大学だ。「野党精神」なるものが「日中友好」の夢想と結びつくとき、トンデモない政治行動にでることを、福田の事例は示しているようだ。
 

ブログ「台湾は日本の生命!」より
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1264.html

福田康夫は中国の歴史捏造の陰謀に加担するなーいよいよ本格化する「孫文」キャンペーン


■日本人にも指摘したい中国近代史の大嘘  

来る二〇一二年は清国を滅ぼした辛亥革命から百周年であり、この革命による中華民国建国から百周年でもある。最近は「中華民国」と言われてもわからない人が多いので説明すると、中華人民共和国が成立する前の中国の国名が中華民国である。
国共内戦で中共に滅ぼされたわけだが、その後政権は台湾へ亡命し、「中華民国」の看板は今でもそこで健在だ。
もっとも「百年」と言われても、一般の日本人には関心外かも知れない。ただ実は日本の安全保障にも深く関わってくることなので、やはり取り上げなければならない。
つまり中国人による歴史捏造についてだ。

■上海万博・日本館での企画展に問題あり

長崎新聞(八月二十日)によると、上海万博・日本館イベントスペースでは八月二十四~二十九日まで、「孫文と梅屋庄吉展」が開催される。梅屋庄吉とは長崎出身の実業家で、孫文の革命事業を支援した人物。この二人の盟友関係を紹介する企画展で、「来年は辛亥革命100年。企画展は梅屋のひ孫で、東京・日比谷松本楼の常務、小坂文乃さん(42)を中心に、両国の関係者が協力して実現を図った」とか。

「松本楼」と言えば孫文と梅屋庄吉が好んだレストラン。孫文はここで宋慶齢と挙式するなど、二人とはとてもゆかりが深い。
それから、長崎県も「全国自治体で唯一、企画展に協賛した」らしい。
ところで記事には「辛亥革命(1911年)により清朝の皇帝支配に終止符を打ち、『中国革命の父』と称される孫文」とある。

実はこの孫文が「辛亥革命により清朝の皇帝支配に終止符を打った」と言うのが、今から問題にしたい歴史捏造なのである。

日本でも台湾でも辛亥革命を指導したのが孫文だと信じられているが、それが間違いなのだ。
以下に中国人が語らず、そして日本人が知らない歴史真実を簡単に記そう。

■孫文は革命政権を敵の袁世凱に譲っていた

たしかに孫文は日本人の強力な支援の下、一九〇五年に東京で革命派の中国人留学生を糾合して中国同盟会を結成、その総理に就任している。しかし広東省などで革命の狼煙を上げる「辺境革命」路線に固執し、揚子江流域での蜂起を狙う「長江革命」路線の宋教仁らと対立。しかも金銭面、人徳面で問題があり、中国人同志から嫌われて事実上追放の身で米国へ渡った。

一九一一年十月十一日、まさに「長江革命」のシナリオに基づき、反孫文の勢力が武昌での蜂起に成功した。米国にいた孫文がそのことを知ったのはそれから二日後。たまたま手にした新聞によってだった。

やがて革命の波は各省へ広がり、革命政権の樹立となるのだが、元首には外国からの支援を受けることもできる著名人であることが求められた。そこで最も知られた孫文に白羽の矢が立ち、一二年一月一日、南京での中華民国臨時政府の発足に伴い、臨時大総統に就任した。

ところがその政治制度は米国式大統領制を目指す宋教仁が導入したもので、軍事独裁を主張する孫文には気に入らなかった。かくてやる気のない孫文は三月、袁世凱に臨時大総統の地位を譲る。

驚くなかれこの袁世凱とは、清国軍の司令官である。武器も資金も不足する革命軍は、この最大の敵への抵抗をあきらめ、政権を譲ったのだ。当時孫文を支援していた日本人は、こうした自己利益のためなら信念も捨て去る中国流がどうしても理解できず、中国人不信に陥り、多くが支援から手を引いた。

このようにして袁世凱は臨時政府を、自分の影響下にある北京へと持って行ってしまった。
そして皇帝に退位を強要し、清国を終焉させた。一三年十月には正式に初代の中華民国大総統に就任している。

これでも孫文は「辛亥革命により清朝の皇帝支配に終止符を打った」と言えるだろうか。皇帝支配を覆したのは袁世凱である。これは彼にしかできないことだった。

■「孫文神話」はこうして作り上げられた

さて孫文だが、よほど革命戦争が好きだったからとしか思えない。一度政権を放り投げた後、なおも第二革命を戦い、第三革命にも関与し、さらには広東で勝手に「中華民国」と言う名の政府の樹立を繰り返し、内戦を引き起こすなどしたが、二五年に死去する。その革命闘争を受け継いだのが手下の蒋介石だった。二八年、北伐戦争の末に北京政府を倒し、ついに南京で新たな中華民国国民政府を樹立した。

このとき中華民国の国旗がそれまでの五色旗から青天白日満地紅旗(一九年成立の中国国民党の党旗)に変わったのは、名は同じ「中華民国」であれ、別の国家が生まれたと言う事実を象徴している。だから今も続く中華民国は成立からまだ八三年なのだ(一九四九年滅亡との事実を受け入れなければ)。

さてその蒋介石は三七年、日本を支那事変に引きずり込んだ結果、重慶への遷都を余儀なくされたのは自業自得と言えたが、政権ナンバー2で孫文の側近だった汪兆銘が重慶を脱し、日本と和平を結んで南京で中華民国政府を再興した。これに慌てた蒋介石は同年、重慶政府を中華民国の正統なる政権と宣伝するため、孫文を「中華民国の国父」と規定した。かくして孫文は神格化され、「辛亥革命の指導者」との嘘も強調された。

戦後は台湾でも国父崇拝の政治教育が進められた。中華民国亡命政権が台湾支配を正当化するため、そうした「神話教育」で台湾人を従属させようとしたのだ。

■中共は孫文を利用し台湾、日本を籠絡

一方中共もまた孫文を「中国近代革命の父」などと持ち上げている。「帝国主義の侵略、封建制度の圧迫の下での抗争のなかでの傑出した代表的人物」(胡錦濤)と位置づけられ、今では中華民族主義のシンボルの一人だ。中共の「中華振興」のスローガンを最初に叫んだのは孫文だとも強調されている。

そして国民党からも神格化される孫文は、国共両党共通の「偉人」であり、「中国統一」をアピールするにも格好の材料なのである。

中共の民族主義政策のスローガン「振興中華」は孫文の言葉だと強調されている

それから中共にとり、日本とゆかりの深い孫文は日本人籠絡のための題材でもある。

さて上海万博での「孫文と梅屋庄吉展」だが、「二人の盟友関係を紹介する」目的は「日中友好」を宣伝することなのだろう。日本人の反中感情が高まる中、中国側も、日本の日中友好派も、こうした雰囲気作りに必死であるが、初日のセレモニーでは「日中近代史の埋もれた秘話が表舞台に登場する」(長崎新聞)らしい。

「埋もれた秘話」とは、「孫文は辛亥革命では脇役」「真の中華民国の国父は袁世凱」と言った「秘話」だろうか。あるいは「孫文は満洲譲渡を日本人に約束していた」との「秘話」だろうか。

■日本人が孫文に従属―中国人好みの友好秘話

実は孫文の革命運動を大勢の日本人が支援した理由の一つに、孫文が革命支援の見返りとして「満洲人の地である満洲は漢民族のものではなく、革命達成後はここを日本に譲渡する」との約束(所謂「孫文公約」)を繰り返していたからである。

もっともこうした「秘話」はご法度だろう。「孫文は反革命の袁世凱以上に反革命だった」「愛国主義者であるはずの孫文は日本に媚びて領土を割譲しようとした売国奴だった」等々が暴露されれば、孫文の宣伝利用もできなくなろう。

だいたい中共は孫文を反帝国主義闘争のシンボルとしているが、実は孫文は革命達成のため、日本、米国、英国など帝国主義国家の支援を求め続けていた人物なのだ。しかし各国からはあまり相手にされず、ついにはソ連に擦り寄ってしまったわけだ。

「埋もれた秘話」と言うのは、梅屋庄吉など日本人が孫文に忠誠を尽くしたと言う話なのだろう。日本人が中国人を信頼し、それに従属したなど、まさに孫文を巡ってよくある中国人好みの「日中友好秘話」である。

だがこれは当時、日中共同でアジアを防衛することを目指し、中国革命の指導、支援に奔走した多くの日本人への侮辱とも言える歴史の見方だ。

さて、こうした「日中友好」史観に基づく企画展のセレモニーでテープカットを行うのは長崎県の藤井健副知事、そして福田康夫元首相なのだそうだ。

日本の首相経験者が、このような舞台に立つのはあまりに不見識であり、国の恥と言うものではないか。

そもそも福田氏は孫文といかなる関わりがあるのだろうか。

■孫文顕彰で立ち上がった福田康夫元首相

福田氏が〇八年に来日した胡錦濤主席との晩餐会場として使ったのが松本楼だった。あの日、松本楼がある日比谷公園周辺は、チベット侵略など中国の残虐な政策に反対する人々抗議に殺到したものだが、福田氏がここを選んだのは、父親の結婚披露宴が行われたと言う理由だけではなかった。やはりこの建物が孫文ゆかりであり「日中友好」のシンボルと見えたのだ。

とにかく「中国の嫌がることはしない」がこの人物の信条だ。中国が喜ぶなら、孫文の顕彰でも何でもやるのだろう。

福田氏は七月二十八日に発足した「辛亥革命100周年記念事業日本実行委員会」の委員長にも就任している。

この委員会は「『辛亥革命』から来年で100年を迎えるのを前に、革命に影響を与えた孫文と日本とのつながりを伝える催しなどを開く」もので、「政界や学術関係者ら43人が委員となり、8~11月に上海や北京、神戸市、東京などで開く展示会やシンポジウムなど計5回を支援する」と言う(東京新聞、七月二十八日)。

このような馬鹿げた委員会に「政界や学術関係者ら43人」もが加わっているのか。もっとも歴史捏造を受け入れてこその「日中友好」であり、今の日本では何の不思議もない。

■中国人の陰謀を打ち破るには「歴史の真実」

さて先に、「辛亥革命」や「中華民国」の「百周年」が日本の安全保障にも関わってくると書いた。それはこれから中国や台湾で行われるであろう百周年の宣伝行事が、台湾併呑を目的とするものだからだ。

台湾政府は来年、三十二億元の予算を注ぎ込み「中華民国建国百年」の祝賀活動を展開するが、百年目の「革命」であれ「建国」であれ、すべては中国での話である(当時の台湾は日本領土だった)。おそらく中華文化、中華民族の素晴らしさを宣伝し、内外に「台湾は中国の一部」と強調するのだろう。

いまどき孫文を崇拝する台湾人が多いとは思えないが、しかし蒋介石と違って台湾人虐殺に手を染めていない孫文への拒否感情は希薄だ。歴史捏造の洗脳教育・宣伝により、「中国統一」への抵抗心理が弱められることも懸念される。

少なくとも国民党政権は、そのようにして国民の同党への共感を獲得しようとしているに違いない。

ちなみに毎日新聞(八月二十一日)によると、「馬英九政権が来年の『中華民国建国100年慶祝活動』の一環で製作を進めている近代中国の革命家、孫文の記録映画に関し、人物像の描き方で激論が起きている」そうだ。

何でも「映画製作を主管する建国100年基金会の製作顧問で女性作家の平路氏は、台湾メディアに対して孫文を『レーニンに笑われた天真らんまんな無知』『情熱的だが抽象的な思考に欠ける』と分析」し、「映画で孫文を多元的、人間的に描く考えを示した」のに対し、「孫文研究の専門家、胡仏・台湾大学名誉教授と弟子の周陽山・監察委員が『軽佻な分析で、孫文を侮蔑している』と批判。公的資金で製作する映画としては『妥当でない』と指摘した」とか。

「今回の映画製作では孫文の神格化を警戒する意見は多い」と言うが、中国人(国民党)は、やはりいつの時代も洗脳教育が好みらしい。

このようにつねに悪質な歴史捏造工作を繰り返すのが中国人だが、そうしたものについつい加担してしまうのが日本人なのだ。

歴史の真実など調べればすぐにわかることだ。台湾人も日本人も早くそれに気付き、中国人の政治宣伝の嘘を見抜くことが大切である。なぜなら中国人の陰謀の力は嘘が見破られることで、大きく減退するからだ。

そうした状況の中で気になるのが、あの元首相の存在なのだ。福田康夫氏はいつまで中国に従属し、中国の対日陰謀を助長し続けるのか。