今日、「産経新聞」の「正論」欄に井上寿一・学習院大学教授(日本政治外交史)が、「終戦から65年」と題する興味深い一文を寄せている。
「歴史認識論争の当事者にとって真の「論敵」は、立場のちがいを超えて、このような無関心層だった。透明な、実感することのできない、無関心層が多数を占める日本において、歴史を問うことはむずかしい。日韓併合100年も朝鮮戦争60年もやり過ごされるだろう。今後、周年イベントが注目されることはないかもしれない。今、話題となっている本にマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』がある。同書は言う。「われわれが個人として、みずからの選択と行動にしか責任がないと言い張れば、自国の歴史と伝統に誇りを持ちにくくなる。…愛国心からの誇りを持つためには、時代を超えたコミュニティーへの帰属意識が必要だ」
「産経新聞」「正論」と聞いただけで、その内容を読もうともしない知識人(?)の方々も多いのだが、ちょっと待ってほしい。このところ、NHKが毎日放送する数多の「戦争回顧」番組を見て、本当に戦争の本質を知ることができたのかと。NHKは「兵士の声」「市民の声」など戦争体験の記録を集めた番組を放送しているが、「戦争の悲惨さ」「戦争をしてはならない」というメッセージは伝わってくるものの、何故、「戦争が起きたのか」「これから戦争が起きるとすれば、どうそれを防止できるのか」といった視点は全く明示しない。 「何故、米国は日本に原爆を落としたのか?」という最大の疑問さえ、全く解明しようとは試みていない。NHKさえもこうなのだから、民放はもうどうしようもない。
私は、数多の「戦争回顧」「戦争反省」番組を見るよりも、この一文のほうがずっといい。日本社会を溶解させかねない感傷的な懺悔は、もういいではないか。「敗戦国」としての屈辱を未来永劫受けなければならないのであれば、未来ある若い日本人は、ある日突然、「懺悔の屈辱」に目覚めるかもしれない。その日は意外にも近いのかも知れない。
【正論】終戦から65年 学習院大学教授・井上寿一
■自国の歴史と伝統に誇り抱く時
…(省略) 戦後、忘却の彼方(かなた)へと追いやられた戦争の記憶が蘇るのは1990年代になってのことである。戦争の記憶の解凍は米ソ冷戦の終結後から始まる。これは偶然の一致ではない。米ソ冷戦は戦後日本の平和と繁栄の国際的な前提だった。日本は米ソ冷戦の受益国である。その国際的な前提が失われる。米ソ冷戦下で凍結されていた戦争の記憶が解凍される。ここに歴史認識論争が展開される。
◆冷戦崩壊で戦争の記憶が解凍
1990年代の歴史認識論争は、「従軍慰安婦」論争や歴史教科書論争、あるいは首相の靖国神社参拝の是非などをめぐって、国内対立を激化させる一方で国際問題となった。国際問題にまで発展した歴史認識論争は、体制を異にする大陸中国だけではなく、米ソ冷戦下、同じ陣営に属していた韓国との間でも激しくなった。同盟国のアメリカとの間でさえ、原爆投下問題をめぐって、外交関係が緊張した。米ソ冷戦の終結によって、パンドラの箱を開けたかのように、つぎつぎと戦争の記憶が飛び出してきた。
歴史認識をめぐる国内論争は、双方が一歩も譲らず、原理的な立場からの批判の応酬によって、高進していく一方だった。なぜ対立が激しくなったか。おそらく米ソ冷戦の終結にもかかわらず、東アジアでは冷戦構造が残存していたからだろう。
別の言い方をすれば、戦争の記憶をめぐる対立は、東アジアの冷戦と対応する国内冷戦として、エスカレートした。この国内冷戦は戦後60年の首相の靖国神社参拝問題で頂点に達する。
その後はどうなったか。対立が収束することはなかった。同じ陣営内においてすら対立が起きた。歴史認識論争をめぐる主要な政治勢力は四分五裂した。
論争の荒廃ののちに訪れたのは、思考停止社会である。問い「『南京大虐殺』はあったのか?」答え「どっちだっていいです」。「それはないだろう」。「だって関係ないですから」。この問答が今の日本の心象風景を表現している。日本は「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の」(三島由紀夫)国になった。
◆時代超えて結びつけるもの
歴史認識論争の当事者にとって真の「論敵」は、立場のちがいを超えて、このような無関心層だった。透明な、実感することのできない、無関心層が多数を占める日本において、歴史を問うことはむずかしい。日韓併合100年も朝鮮戦争60年もやり過ごされるだろう。今後、周年イベントが注目されることはないかもしれない。
どこかに希望を見いだすことはできるのか。今、話題となっている本にマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』がある。同書は言う。「われわれが個人として、みずからの選択と行動にしか責任がないと言い張れば、自国の歴史と伝統に誇りを持ちにくくなる。…愛国心からの誇りを持つためには、時代を超えたコミュニティーへの帰属意識が必要だ」
この一節を読み飛ばすことなく、日本に引きつけて考える人が一人でも多くなることを願う。
あるいはもっと直接的に、たとえば浅田次郎『終わらざる夏』を読み、戦争とは何か、思いをめぐらせたい。同書の一節は言う。「平和と幸福を求めて生きる人間が、誰ひとりとして好まぬ戦をし、まるで聖なる儀式のように死と親和する」。これが戦争の真実の姿にちがいない。
この物語をとおして、過去の日本と現在の日本とを結びつけることができれば、「時代を超えたコミュニティーへの帰属意識」が生まれるだろう。その時、私たちは「自国の歴史と伝統に誇り」を抱くことになる。
このままだと、遠くない将来、8月15日が何の日か、すぐには思いだせなくなるかもしれない。そうならないように、せめて1年に1度、戦後何年になろうとも、この日だけは、戦争の記憶を掘り起こし、過去とのつながりのなかで、未来の日本を考えたい。(いのうえ としかず)