澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

キリスト教が近代東アジアにのこしたもの

2010年11月17日 11時17分40秒 | 歴史
 S先生の授業を聴きに大学に行く。午前10時に自転車で出かけたが、もう手袋がないと寒く感じる。
 大学祭が今週末にあるからだろうか、今日の授業には7名しか学生が来なかった。ジジババは5人全員が出席していたので、どこかの教養講座かと見間違う雰囲気が漂った。

 だが、S教授は一切手抜きナシ。毎回、自分で作成したレジュメと史料を配布する。ボードには必ず地図を書き、歴史的経緯と地理的関係を総合的に説明する。これは本当にありがたい。
 きょうのテーマは、カール・ギュッツラフという人。19世紀半ば、東アジア全域で活躍したプロテスタントの宣教師。当時、清朝政府が「国禁」としていたキリスト教の布教を進めると同時に、英国政府の通訳として、アヘン戦争にも深く関わった人物だ。私自身、かつて中国に暮らし、同じような経歴を持つ外国人と関わりがあっただけに、その生涯を興味津々の思いで聴いた。

  帰りは弁当屋で中華風弁当を買い、近くの丘の一番高いところで食べる。日差しが強く、意外にも寒くはなかった。空を眺めながら、とりとめもなくキリスト教がアジアにもたらした禍福を考えたりした。私の親族には、キリスト教の熱心な信者がいたが、その生涯は決して幸せなものではなかったことも…。


(台湾・台南の馬祖廟)

 澎湖諸島にいたとき、街のあちこちに馬祖を祀る廟を見た。馬祖は福建省出身の海洋民が信仰する神。彼らが足跡を残した、シンガポールから天津までの海岸地域に広く見られる。台湾では、淡水や台南にも大きな廟がある。澎湖諸島では、この馬祖廟を研究している真面目な日本人女子大生に出会った。 果たして、彼女は確かな研究成果を得たのだろうか…。

 これまでの自分を考えると、特に宗教に突き動かされたことはない。今の私には、一神教ではなく、より穏和な馬祖のような民間宗教の方が心安まる思いがする。

中華帝国的版図とは?

2010年11月17日 01時58分03秒 | 中国

 尖閣諸島における中国漁船衝突事件は、平和呆けした日本人にも「黒船」的効果をもたらした。「尖閣」以前と以後では、日本国民の中国観は大きく変わったのではないか。
 
 だが、この事件のずっと以前から、評論家・櫻井よしこ氏は、日本人の対中認識の甘さに警鐘を鳴らしていた。ここに部分引用したのは、9月に書かれた評論。平野聡氏(東大準教授 アジア政治外交史)がその著書「清帝国とチベット問題」(名古屋大学出版会)で明らかにした中華帝国的版図に触れていて、中国の本質を理解するうえで参考になる。  

 

櫻井よしこ「東シナ海で決まる民主党外交の浮沈」より 

中華帝国的版図

日本政府はこの際、中国外交の基本型を心に刻んでおくことだ。尖閣諸島は日本固有の領土であり、東シナ海は国連海洋法条約に従えば、中間線をもって折半するのが常識だ。にも拘らず、自国の領土領海だと主張して「報復」を持ち出す。

中国のこの理不尽な対応はどんな理屈や考えによるものなのか。 答えは、何世紀にもわたって中国が周辺諸国と切り結んできた歴史を見れば明らかだ。チベットを例にとってみよう。

元々チベットは、自治が基本の「藩部」という位置づけにあり、中国と対等の同盟国関係にあった。中国も対等を認めてきた。たとえば18世紀中葉の清朝乾隆帝のとき、チベットの指導者、パンチェンラマに対等の相手としての礼を尽している。

乾隆帝70歳の誕生日の慶賀の席で、パンチェンラマは乾隆帝と同じ高さの台に置かれた全く同じ椅子に坐り、一段下に控えた朝鮮使節を引見した。朝鮮使節は乾隆帝に対するのと同様にパンチェンラマにも3回の叩頭(こうとう)を以て臣下の礼をとっている。中国とチベットが対等であり、両国が同盟関係にあったことが窺われる。だが、中国は後にそれを反転させた。新しい華夷秩序の理論を構築し、自らをチベットの統治者と位置づけたのだ。

重要なことは、中国の主張や掲げる理論と、現実が、全く合致しないことだ。だが、彼らは一切気にしない。彼らは事実とは無関係の中華式世界秩序を、言葉によって創り出すのである。その言葉に従って、世界秩序が形成されなければならないと考え、嘘や謀略を駆使して突進するのである。
右の事実は佛教大学非常勤講師の手塚利彰氏が明らかにし、10月出版予定の『中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか--その歴史的構造を解明する』(文藝春秋)に納められている。こうしてみると、いま、中国がチベットを中国の「核心的利益」と位置づけ、如何なる外国の介入も、独立も許さないと主張することの不条理に気づかされる。

南シナ海も同じである。中国は1992年に南シナ海の西沙、南沙、東沙、中沙諸島の全てを自国領だと宣言した。事実とかけ離れた中国領有権の主張は、同年に米国がフィリピンに保有していた大規模な海軍、空軍の両基地を閉鎖し、撤退したその軍事的空白の中で展開された。ASEAN諸国は怒ったが、中国は力を誇示して、或いは実際に軍事力を行使して、有無を言わさない。

中国外交のこの手法は現在も変わらない。基本的型として、彼らは史実も現実も無視し、中華帝国的版図を宣言する。漁民或いは漁民を装った軍人を、中国領だと主張する島々や海に進出させる。元々の領有権を保有する国々が船を拿捕したり漁民を捕えると、それを口実に軍事力を背景にして相手を屈服させるのだ。


一ミリも譲らない決意

こうして中国は95年初頭までに南沙諸島の実効支配に取りかかった。現在、南シナ海、特に西沙諸島周辺海域には中国海軍の軍艦が常駐し、「銃撃」も辞さない構えをとり続けている。

南シナ海の現実から東シナ海の近未来図を読み取ることができる。不条理な理屈で日本を巻き込み、わが国の海域で展開されるこの闘いは、13億の民を養うための熾烈な戦いであり、その戦いに勝つことなしには生き残ることさえ出来ない中国共産党の命運をかけた大勝負なのだ。民主党はその中国政府の意図を冷静かつ正確に見極めることだ。

たとえば、中国政府の厳しい対日措置は中国国内の反日世論を沈静化させるためだというような見方に過度に傾くのは危険である。日本人の感じ方や価値観で中国外交を見ると、必ず間違う。

自民党時代にこんなことがあった。交渉が進展しなかったとき、所管大臣の故中川昭一氏が日本側も東シナ海の試掘に入ると宣言し、帝国石油に試掘権を与えた。だが、後継大臣の二階俊博氏は方針を変更して試掘権の行使を否定した。当時流布されたのは、「とりわけ親中派の二階氏が担当大臣になった。中国側が親中派の面子をつぶすはずはない。むしろ、強硬派だった前任者の時よりも日本に有利な解決法を示すはずだ」という希望的観測だった。

周知のように事実は反対方向に動いた。根拠なき楽観は自滅に通ずる。日本外交はさらに追い込まれて、現在に至る。

国益をかけた交渉の場に、個人的感情や希望的観測は厳に戒めなければならない。民主党外交は、従来の日本政府の主権意識なき外交を繰り返してはならない。これまでの負の遺産の中で、対中外交は非常に難しい局面にある。

だが、いま、中国が一気呵成の攻勢に出ているのは、明らかに民主党政権の戦略と能力を疑っているからだ。民主党は兎も角も、自民党政権が出来なかった船長逮捕に踏み切った。ここからが重要である。日本政府として、領土領海に関しては一ミリも譲らない決意を静かに、しかし断固として示すことだ。