エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

ドラマ「白虎隊」

2007-01-08 | 日々の生活
          《献花や線香の絶えない白虎隊士の墓》

 正月の新春ドラマスペシャルで、2夜連続のテレビドラマ「白虎隊」を見た。(1/6、7)ひと味違ったドラマ「白虎隊」に、あらためていろいろな思いが巡った。

 テーマは、「戦争のむなしさ」だと思う。今から140年前の悲劇、戊辰戦争で白虎隊の19人の若い命が失われた。そこには母との別れがあった。愛するもの達との別れほどせつないものはない。会津人だからことのほか思い入れて見たのだろうか。
 その後も日本はさらにひどい戦争を体験した。そして、いまだに世界各地ではむごい争いが繰り返されている。有史以前から、こうした愚かな歴史がいつまでも繰り返されているのだ。なんと人間は愚かなのだろうか。戦争は、無益な殺し合い以外の何物でもない。
 ドラマの中で先人の語る言葉には胸を打たれた。
○「死は一瞬だが、残されたものの悲しみは辛い。」  ○「力は備わっているものではない。生まれてくるものだ。」  ○「気品のある死に方をする人は、気品のある生き方をした人だ。」  ○「正しい戦争などあり得ない。」
 次に、家老・西郷頼母(*)の平和主義が心に残った。察するにあまりある、辛かったであろう彼の心中、そして彼の生き方、半生をもう一度見つめてみたいと思った。 西郷家の悲劇も忘れてはならない。時代の流れを恨んだ。なぜこんなむごたらしい戦争をしなければならなかったのか。「戊辰戦争とは、いったい何だったのか」もう一度見つめてみたい。
平和な今の日本に、自由に生きられることを申し訳なく思う。それだけに、もっと質素にこころ豊かに生きなければと思う。

 またもや、会津の悲劇、その思いを適切に表している「愛しき日々」の歌詞が、浮かんできた。
《拙ブログ(2006.11.5)【 戊辰役殉難会津藩士二十二士之墓】》

愛しき日々」 
  小椋 佳作詞 堀内孝雄作曲
   【参:http://www.fk.urban.ne.jp/home/kazuaki3/utagoe-61.htm】

   風の流れの 激しさに 告げる思いも ゆれ惑う
   かたくなまでの 一筋の道 
   愚か者と笑いますか
   もう少し 時がゆるやかであったなら・・・・・
   
   雲の切れ間に 輝いて 空しき願い また浮かぶ
   ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
   急ぐ命を 笑いますか
   もう少し 時がやさしさを投げたなら・・・・・・
   
   愛しき日々の はかなさは
   消え残る夢 青春の影
   きまじめすぎた まっすぐな愛
   不器用者と 笑いますか
   もう少し 時が たおやかに過ぎたなら・・・・・・・
   
   愛しき日々は ほろ苦く
   一人夕日に 浮かべる涙 

(参考)年末に白虎隊の墓に参りをした。《拙ブログ(2006.12.17)【街中散歩 飯盛山】》

『何年ぶりだろうか、いつもお花が供えられ線香が絶えない白虎隊士の墓に参った。寒くなったが、今日は日曜日、観光客もちらほら見かけた。
 前途のある子どもたちが戦火に散った、「忠烈永久に香を残す花も会津の」白虎隊の悲劇をあらためて思った。隊士の墓の傍らには会津藩主 源容保公の弔歌碑が建っている。 「幾人の涙は石に注ぐとも その名は世々に朽ちじとぞ思う」
 また、いままで気づかなかったが、少年武士慰霊碑が建ち、碑の裏には14歳から17歳までの戦死した少年の名が記されていた。今更のように時の流れが恨めしい。』

(*)
西郷頼母 【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より】
1862年、容保が幕府から京都守護職就任を要請されたとき、政局に巻き込まれることを恐れて容保に辞退するように進言したため、容保の怒りを買う。その後、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説く。だが、認められず国許へ帰らされ家老を解任され、蟄居する。1868年、戊辰戦争が起きると容保から家老職復帰を許された。このとき、頼母は新政府への恭順を勧めたが、藩主容保と主立った藩士たちはこれを無視して新政府との戦いに挑んだ。やむなく頼母も白河城にて新政府軍と戦ったが、伊地知正治率いる新政府軍の攻撃を受けて白河城は落城し(白河口の戦い)、頼母は会津若松城に逃げ戻って再び恭順を勧めた。しかし、会津藩士の多くは頼母の進言を聞き入れず、なおも新政府への抗戦を主張したため、藩主容保の命により一子吉十郎と共に城を脱出し、その後榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線まで戦った。なお、母や妻子など一族21人は頼母が登城後に自刃している。
西郷頼母  【 HP「とげちょ」《会津の名君・名将》より】
 家老西郷頼母は鶴ヶ城大手門外の近くに邸を構えていた。頼母は抗戦(戊辰戦争)を主張する藩論の中にあって、終始恭順を説いていたが、和平策の尽きたとき、まだ幼い長男(吉十郎)伴って篭城を決意した。この別れの宴のとき、母の律子は漢詩を吟じて頼母を励ました。妻の千恵子は「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」と辞世の歌を詠み韻々と響く砲声を耳にしながら、9歳、4歳、2歳の子を自らの手で刺し、これにならって妹2人、16歳の長女、13歳の次女ら一族21名ことごとく刃に伏し、頼母の後顧の憂いをたったと言う。
 篭城が続く中、これ以上の篭城戦は無益と悟った藩主松平容保は、孝明天皇より賜った御震翰を頼母に託し、城から脱出させ、頼母は山形方面に逃れたという。後に孝明天皇より賜った御震翰が会津は朝敵ではないとの証となる。城を脱出した頼母は明治・大正の世を生き抜いたが、一子吉十郎が夭折してからは、ただ一人茫々とした面持ちで世の移り変わるさまを眺めて暮らしたという。
 なお、富田常雄の柔道小説「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎は、西郷頼母の養子であるという。