都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「七夕・隣の客1」
都月満夫
七夕祭の夜であった。街は小さな子どもを連れた夫婦、若いカップル、女学生たちで溢れていた。浴衣姿の若い女性が、祭りをいっそう華やかにしている。北海道の七夕は八月七日に行われるので、今夜は浴衣では少し肌寒いかもしれない。
帯広では広小路商店街のアーケードの下に笹飾りが飾られる。西二条通りから大通りまでの商店ごとに飾り付けの審査が行われるので、それぞれ趣向を凝らした笹飾りで毎年市民を楽しませている。
本来は、牽牛星と織女星が年に一度しか会えないという悲しい故事にまつわる中国の節句であるが、今は、七夕は若い恋人たちや、子どもの小さい親子にとっては幸せに満ちたイベントなのだ。
私も家内と付き合っていたころや、子どもたちが小さかったころは、毎年七夕を見に来ていたものである。最近は、子どもたちも成人し、家内も街に出ることが億劫らしく、家族で七夕見物をすることはなくなった。
今夜は、取引先の食品メーカーの担当者が札幌から来ていて、食事をして別れた後である。私は久しぶりに笹飾りの下を一人で歩いていた。すぐに家に帰ろうと思っていたのだが、歩いているうちに七夕の雰囲気をもう少し味わいたくなった。そして、会社の同僚と時々行く、スナック「マリリン」に寄った。
ここは団体客の多い店なので、広い店内にはボックス席が八席ほどと十人ほどが座れるカウンターがある。カラオケのステージが真ん中にあり、ダンスフロアーもある。もともと個人客はあまり来ない店なので、イベントの夜にしては空いていた。カウンター席はほとんど満席であったが、ボックス席には五人ほどの客が一組だけであった。時間がまだ九時前のせいかもしれない。
「あら、サーさん、久しぶり、元気だった。」
ママがすぐに声をかけた。小柄で元気のいいママは、多分私と同じくらいの歳かひょっとすると少し上かもしれない。気さくな彼女は会社の女性社員にも「梨恵ママ」と呼ばれていて評判がいい。
「今日はお一人…?」
「一人じゃ…、ダメ?」
「そんなことないわよ。」
「七夕なのに、空いていますね。」
「うちは駄目なのよ、こういう日は…。団体さんが入らないから。」
「そうだね、最近はみんな家庭サービスに忙しいから…。」
「こちらにどうぞ。」
ママはカウンターの奥から二番目の席に私を案内した。
「ここでいいかしら、こんな奥で…、ごめんなさい。」
私が席に着くと一番奥にいた男が顔をかすかに傾け、ギョロリと私を一瞥した。男は小柄で小太りであった。白髪混じりの髪は短く刈り上げていた。歳は六十を過ぎたあたりであろうか。一見して、あまり係わりたくないタイプの職業の男のように感じた。
私は軽く会釈をして、ママに生ビールのジョッキを注文した。
「お一人で来るなんてめずらしいわね。」
「会社の取引先と食事をしたんだけど、笹飾りの下を歩いていたら、急に織姫に会いたくなってね。」
「それじゃあ、サーさんが彦星ってこと?」「私が彦星では図々しいって叱られるかな。」
「そんなことないわ。こちらのほうが、年を取った織姫で申し訳ないわよ。」
ママが笑った。
「ところで、ママ、織姫星と彦星の話、どんな話か、ちゃんと知ってるかい?」
「そういえば、年に一度しか会えないってことくらいしか知らないわね。サーさんは知っているの。」
「知ってますよ。」
「あらら、まずいこと聞いちゃったかしら。また、ウンチク話が始まっちゃうわね。いいわ、今日はお客さんもあんまりいないから、じっくり聞いてあげるわよ。本当に変なことに詳しいんだから。で…、どんな話。」
「嬉しいね。最近、会社でも家でも、誰も話を聞いてくれないんだよ。話を聞いてくれるのは梨恵ママくらいだよ。」
「そうね、サーさんの話は無駄な知識ばかりで役に立つ話はほとんどない…失礼。でも、今夜は七夕だし、聞いてあげるわ。」
「ありがとうございます。そもそも織姫と彦星という言いかたは日本の名前で、中国では織女と牽牛という名前なのであります。ですから、本日は中国名で話しをさせていただきます。あっ、その前に、七夕の語源から話さなくては…。」
「七夕の語源って…。何でそんなこと知っているの!」
「まあまあ、聞いてよ。そもそも七夕は、しちせきと読み五節句の一つで七月七日の夕方…の意味なのです。では、何故それがたなばたになったのか…。
この話が中国から伝わる以前に日本には、旧暦の七月十五日、新暦の八月中旬に、収穫祭、盂蘭盆が行われていて、『棚機女(たなばたつめ)』と呼ばれる巫女が、水辺で神の降臨を行う『禊(みそぎ)』と呼ばれる農村儀式があったらしいんだよ。
その『棚機女』と『織女』と『七夕』が混同され、七夕をたなばたと、読むようになった、というんだけどね…。だから、北海道で七夕を八月行うってほうが本来の時期に近いってことだよ。」
「そうね。それと、私たちが子どもの頃、川から柳の木を切ってきて短冊を作ったり、折り紙を折ったりして飾ったわよね。それって水辺の行事らしくて笹竹なんかにに飾るよりいいじゃない。最近は家庭で七夕飾らなくなっちゃったけど…。」
「本当だなぁ…。柳のほうが笹より風情があるかもしれない…。まぁ、ここら辺には笹竹が生えていないという事情もあるんだろうけど…。いずれにしても近頃は護岸で川岸に柳の木なんか生えちゃいないよ…。」
「今の子どもたちは、季節感を体感できなくて可哀想ね。商店街の行事としか思ってないかもね…。」
ママがしみじみ言った。
「そうだなぁ。子どもの頃、母親と飾りを作ったり、短冊を書いたりして結構楽しかったよなぁ…。今でも覚えているよ。」
「今の母親は忙しいから…。そんな余裕ないんじゃない。」
「ママ、昔を懐かしむってことは、二人とも歳をとった…ってことかな。」
「あら、いやだ。私は、まだ若いわよ」
私たちは顔を見合わせて苦笑した。
「七夕伝説のはなしに戻っていいかい。」
「はいどうぞ。」
ママがおどけた調子で返事をした。
「織女は天帝の孫娘の七人姉妹の一人で、姉妹は皆、機織の名手だったそうです。天帝の娘って説もあるけど…。孫娘ということで話をするよ。」
「昔は、兄弟姉妹が多かったからね。」
「ほらまた、昔の話に戻るんだから。続けるよ。牽牛は、天界と銀河で隔たれた人間界に住んでいた若者で、一頭の年老いた牛を連れていた。毎日、畑仕事をしながら、一人寂しく暮らしていたそうです。毎日毎日仕事に追われているなんて、私にそっくりだなぁ。」
「そうね。若者じゃないけど。」
「私だって昔は若者だったこともあったよ。」
「そうよね。私にだって若くて綺麗なころがあったんだから。」
ママが笑った。ママはいつも笑っている。
「ある日、その年老いた牛が人間の言葉で牽牛に話しかけるんだよ。」
「牛がしゃべったの。」
「うん。話だから。『もうすぐ、天帝の七人の孫娘が銀河に入浴に来るから、その時に彼女たちの羽衣を隠してしまいなさい。そうすれば天女の一人を妻にできます。』ってね。」
「七人の女性の入浴を覗くってこと?」
「そうだな。私もそんなチャンスに廻り会いたいもんだよ。七人のヌードだぜ。」
「そんなチャンスなんかないわよ。覗きじゃない。犯罪で捕まるわよ。」
「そりゃあそうだけどさ。とにかく牽牛は彼女たちが来るのを岸辺に隠れて待っていた。暫くすると天女たちがやって来て入浴を始めたそうです。そこで、牽牛は織女の羽衣を持って逃げ出しました。」
「天女ってことは、みんな美人なんでしょうね。天女の不美人って聞いたことないもの。」
「そうだろうな。私だったら、羽衣を持って逃げ出すなんて忘れて覗いているかも…ね。」
「そうよね。男はみんなエッチだから…。」
「とにかく、牽牛は羽衣を持って逃げ出したんだよ。当然ほかの天女たちは慌てて自分の衣を羽織って、天界へ逃げ帰った。織女だけが羽衣がないので取り残されてしまった。」
「裸で男の前に取り残されたってこと?」
「そうそう。しかも、牽牛は織女に向かって『自分の嫁になれば羽衣を返す。』といって結婚を強要し、織女は恥ずかしさのあまり承諾してしまうんだよ。」
「いやな男じゃない。軟禁状態よね。」
「今の女性だったら、男の頬っぺたの一つもひっぱたいて、羽衣を取り返して、天界に帰っちゃうんだろうな。」
「そうよ。当然よ。」
「それじゃ話にならないよ。とにかく二人は結婚して、牽牛は畑仕事、織女は機織に精を出して、仲良く暮らし、男女一人ずつの子どもを授かる。今で言えば、天女と人間のハーフってとこだな。」
「女はそういうことに弱いのよね。一緒に暮らせば情が移っちゃうから。」
「そうかな。今はそんなことないんじゃないの。最近そんな女性いるのかな…。」
「そんなことないわよ。私は情のある女よ。」
「梨恵ママは別だよ。」
「ありがとう。」
ママは少しすました素振りで横を向いてから、吹き出すように笑った。
「とにかく、二人は仲良く暮らしていたんだけど、天帝がこのことを知って激怒し、織女を天界に連れ戻してしまうんだよ。」
「子どもたちはどうしたの。」
「牽牛と人間界に残されてしまったんだな。」
「普通は、親権って母親のほうが優先するんじゃないの。母親にとって、子どもと引き離されるのが一番辛いのよね。」
「生々しい話だな。当時は家庭裁判所がなかったからね。でも、牽牛は子どもを天秤棒で担ぎ、天界へ織女を追いかけて行ったんだ。」
「いいとこあるじゃない。」
「追いかけて行ったんだけど、天帝が銀河の水を巻き上げ高い波を作って、銀河を渡れなくしてしまったんだ。」
「それでどうしたの。」
「牽牛は柄杓で銀河の水をすくい始めるんだよ。すると子どもがそれを見て、手伝い始める。泣かせる話だろう。」
「本当ね。子どもにとって母親は何より大切ってことよね。」
「それを見ていた天帝が感動して、鵲(かささぎ)に命じて、翼を並べて銀河に架け橋を作らせた。年に一度だけ、七月七日に、その橋の上で、会うことを許したという話さ。これは蛇足ですが、今は鵲っていうのはカチガラスのことなんだけど、その頃はアオサギのことを、そういったらしいんだよね。だから結婚式場にアオサギの絵が描いてあったりするわけだよ。愛し合う二人を結びつけてくれる縁結びの鳥としてね。
松に鶴なんておめでたい代名詞のように、鶴の絵が飾ってある結婚式場があるけど、鶴の足構造では松に止まれない。誰かが勘違いしたんだな。」
「あ、そう…、でも松に鶴の方が多いわよ。」「それで最近離婚が多いのかな…。」
「でも、天帝も心が狭いわね。完全に許してあげればいいのに…。」
「そこが、天帝の辛いところさ。人間と結ばれたことに対する怒りと、孫娘に対する愛情との板ばさみで苦しんだあげく、妥協案で天帝としての面子を保ったってことだろうな。」
「男って面倒な生き物だわね。」
「そうだよ。男にとって面子は大事なことだからね。」
「でも、その話って、悲恋物語ではないわよね。牽牛は職女を略奪したわけだし、天帝は孫娘の幸せより自分の面子を選んだわけだから、結局、男の身勝手の話じゃない。」
「そうだな。男の身勝手だよな。昔は男社会だったから、こんな話が悲恋として伝えられたんだろうけど…。確かに男にとっては、折角手に入れた嫁さんを奪われたんだから、悲恋かもしれないけれど…。女性にとっては、悲運っていうか、ただの迷惑な話だってことだなぁ。」
「そうよ。男の身勝手だわ。」
他愛もない話のつもりであったが、意外な方向に話が進んで、ママが少しむきになったので会話が途切れた。
※ブログの文字数制限のため第二部に続きます
「七夕・隣の客2」
都月満夫
「男なんてみんな身勝手なもんだよ。」
隣の男が低い声で呟いた。私は聞こえない振りをして、ビールを口に運んだ。
「オレも身勝手なことを散々やってきたから他人のことは言えないけど…。」
男はかまわず独り言のように話を始めた。
「だけどよ、自分の妹のことになると話は別ってことだよ。」
男は目が据わって、何処か威圧感さえ漂わせて話し始めた。男の低い声に圧倒され、周囲は静かになった。
「妹は、小さな飲み屋のホステスをやってたんだよ。よくある話だけどな。客といい仲になっちまってよ。堅気のサラリーマンってやつよ。妹も馬鹿な奴だよ。自分の身分ってものを忘れてよ、男にのぼせ上がっちまったんだよな。」
話を聞きながら、私は昔のことを思い出した。高校を卒業して、地元の食品卸の会社に勤めた私は、当時、二十歳を過ぎて営業職になったばかりの頃であった。
毎日、営業を終え、会社に帰り、伝票整理を片付けると、午後九時を過ぎる。帰りに、大通りを挟んで向かいの小路にある小さな飲み屋「喜樂」に時々顔を出すようになった。
小料理屋のような名前だがホステスが三、四人いるバーである。ママが六十過ぎの年齢のためこんな屋号なのだろう。私は特に酒が好きというわけではないが、十二時過ぎまで店にいて、車を運転して帰るのである。
当時、昭和四十五年頃は、自家用車を持っている人は少なくて、警察の取り締まりも厳しくはなかった。今にして思えば、事故を起こさなかったのが不思議なくらいである。
ある夏の日、私が帰ろうとすると、店のホステスの一人である潤子が声をかけた。
「どっちの方に帰るの?」
彼女は年令が二十五、六歳で小柄で元気のいい女性であった
「緑ヶ丘の方だけど…。」
「私も緑ヶ丘なの。乗せて行って…。」
私は潤子を送って帰ることになった。車は大通りに駐車してあった。その頃、大通りは駐車禁止ではなかった。八丁目から十丁目の道路の両側には車が多数駐車していた。午前一時過ぎには、駐車している車はいなくなる。ほとんどが、酒を飲みに街に来ている人たちの車だったのだろう。
潤子の部屋は春駒橋付近の古い木造アパートの二階であった。彼女は私を何の躊躇もなく部屋に招き入れた。
「ねえ、しようよ。」
部屋に入るとすぐに、潤子は服を脱ぎながら言った。
「送ってくれたお礼…。だから気にしなくていいよ。」
私たちは関係を持った。潤子は、まるで握手でもするように、あっけらかんと身体を許した。私も何の躊躇いもなく、潤子を抱いていた。二十歳の私にとって、目の前にいる女性を拒否することなどできなかった。彼女は小柄ではあるが乳房は豊かで、はち切れんばかりであった。
「どお、よかった?」
潤子が聞いた。
「うん。」
私が返事をすると、
「そっか…、気に入ってくれた。嬉しい…。私のオッパイ大っきいっしょ?」
「うん、大っきい。すっごいよ。」
私が言うと、潤子は嬉しそうに両手で乳房を揺すって見せた。彼女は豊かな乳房がとても自慢げであった。
「じゃあ、オレ帰る。」
私が服を着て部屋を出ようとすると、潤子は裸のままで立ち上がり、
「したっけネ。」
と明るく手を振った。
その後、私はしばしば潤子と関係を持つようになった。冬のある日、潤子が関係を持った後で、タバコを吸いながら身の上話をしはじめた。
「潤子は中学を卒業してから、露天商だった兄貴にくっついて店の手伝いをしていたんだよね。そのうち、店の男に無理やり身体奪われて…。その男と同棲して…。バカだよね。」
「…。」
「アイツに、毎日毎日抱かれて、男の悦ばせ方教えられて…。上手くやらないと殴られて…。殴られたくないから…、気に入って欲しくて言われる通りにがんばって…。」
「…。」
「十六歳から歳をごまかしてホステスやらされて、稼いだお金はほとんどアイツに巻き上げられて…、それでも気が付かないで…。」
「お金を巻き上げられているとは思わなかったんだ…。」
「うん。自分がアイツにお金を上げているつもりで、いい気になってた。そのうち子どもができたら、殴られて、腹を蹴られて流産して、子どものできない身体になっちゃった。」「そうか…。」
「潤子はアイツの玩具だったんだよ。結局、捨てられて…、でも、幸いそれがきっかけでアイツと手が切れたんだけど…。」
「…。」
私は自分の生い立ちの中では全く考えられない潤子の経歴に返事もできずにいた。
「アイツらは女を道具としか思ってないんだから…。セックスと金を稼ぐ道具なんだ。だからサ、あんなヤツら大嫌いなんだ。」
「そうか…。」
「でもさ、アイツに教えられたおかげで、アンタを喜ばせてあげられる。アンタが潤子を抱いて喜んでくれる…。」
「…。」
私も複雑な心境で、返事も出来なかった。
「今は自分の好きな男に、抱かれたい時に抱いてもらえる。最高さ。」
潤子はセックスについては実にあっけらかんとしていた。潤子にとってセックスは男と女のコミュニケーションの方法のひとつでしかない。自分の思いが募って身体を許すという、順序を追った恋愛経験がないようであった。彼女のセックスをする判断基準は、恋愛感情以前の、好きか嫌いかで決定されているようである。
だから、潤子と関係のある男は私だけではない。潤子は他の男のことも普通の日常のことのように私に話しをする。彼女にとってセックスは特別のことではなく、日常生活の一部でしかないようだ。
私が潤子に抱いている感情は非常に表現しようのないものであった。私にとって潤子は馴染みの店のホステスで、恋人ではない。だからほかの男との関係にも嫉妬もしない。私は潤子にセックスだけを求めているのかというと、そうでもない。私からセックスを求めたことはない。だから、潤子が求めたとき意外は彼女の部屋に入ることはない。潤子との会話は、店でも、個人的にも、とてもリラックスできてストレスの解消になり、気分転換にもなる。潤子といる時間は、見栄も仕事もすべてを脱ぎ捨てて、裸の自分をさらけ出せる安心感があった。肉体関係がありながら恋人ではなく、ホステスと客であり、完全な友人ともいえない、不思議な関係である。不思議な関係であるというより、不思議な女である。
潤子との付き合いが始まって一年ほどたった七夕の時季であった。
「明日、七夕見に行こうヨ。店は休むから。」
店で突然潤子が私に言った。私は人混みの中を恋人同士のように歩くのは気が進まず返事に困っていた。
「行こうヨ。行こうヨ。」
私はせがまれてしぶしぶ同意した。
次の日、待ち合わせの喫茶店に入って私は驚いた。潤子はいつもの潤子ではなかった。茶色の髪は黒く染め直されていた。化粧はいつもの厚化粧とは異なり普通の娘のようであった。真っ赤だった爪にも薄いピンクの目立たないマニキュアが塗られていた。服装もいつもの胸が大きく開いたワンピースではなく、白いブラウスに赤いミニスカートという子どものような格好であった。潤子の大きな胸がブラウスのボタンを今にも弾き飛ばしそうで、不釣合いであった。
「どうしたんだよ。その格好。」
「可愛いっしょ。一緒に歩いても大丈夫でしょ。」
潤子はとても嬉しそうであった。
喫茶店を出て、笹飾りの下を歩くと、潤子は腕を組んできて、とてもはしゃいでいた。潤子の大きな胸がゴムマリのように、私の腕を押し、温もりが伝わってくる。
その後、私たちは小さなスナックでお酒を飲んだ。その店は潤子の知り合いのマスターの店であったが、私は初めての店であった。マスターは以前、潤子が働いていた店でボーイをしていた人だということだ。五十歳前後のとても愛想のいい人であった。
「マスター、潤子、お店休んで、七夕見てきたの。」
「そうか、この人は潤ちゃんの彼氏ってことかい。」
「いやだ、マスター。彼氏だなんて…。」
潤子は笑った。
「あれ?潤ちゃん、何でテレてるの?本気ってこと?」
「何言ってんのさ、マスター。この人に悪いベさ。この人は真面目なサラリーマンだし、潤子はホステス…。そんな訳あるはずないべさ。」
潤子は慌てていた。恥じらいを隠そうとするかのような、今までに見たことのない、潤子であった。
その後、私たちはホテルで関係を持った。いつもは潤子の部屋で別れの挨拶のようにセックスをするのだが、その日は潤子がホテルにどうしても行きたいと言った。
その日の潤子はいつもとは違っていた。しっかりと抱きついて身体を密着し離れようとしない。
「どうしたんだよ。」
「どうもしないよ。抱いて、強く抱いて。」
私は言われるままに、抱きしめた。
「ありがとう。ホントにありがとう。まさかホントに七夕に付き合ってくれるなんて思ってなかったから…、嬉しかった。」
その日以来、私は潤子の店にほとんど行かなくなった。その時の潤子の目が、今までの関係の一線を越えて私の方に踏み込んで来そうで、恐ろしかった。潤子とはあまりにも生きてきた世界が違いすぎる。私は潤子の生きてきた世界に触れていることはできても踏み込んでいく勇気はない。踏み込んで来られても受け止める自信がなかった。
「妹はよ、本気になっちまったんだよ。捨てられるのは分かってたのによ。本気になっちゃいけないって分かってたのによ。どうしようもなかったんだよ。分かるだろう、ママさんよ。」
隣の男は涙さえ浮かべそうな口調でママに話しかけ、強引に同意を求めた。
「そうね。…。」
ママは曖昧に頷いた。
「妹はよ、男のことも平気で話すヤツだったのによ、その男のことだけは一切喋らなかった。聞いたことがなかった。それだけ本気だったってことよ。そうだろう、ママ?」
「…。」
ママは頷いて、水割りのお代わりを差し出した。男はグラスを手に取ると半分ほどを飲んで話を続けた。
「アイツ、嬉しそうに話してたんだとよ。その男と七夕に行ったってよ。そいつが七夕飾りの下で、腕を組んで歩いてくれたってよ。 当時、妹が出ていた店のママが、後になって教えてくれたんだよ」
「…。」
ママは黙って、男の話を聞いていた。誰かが話を聞いてやらないと、男が暴れだしそうな不気味な雰囲気があった。
「その店のママの話ではよ、妹が、七夕の話をした頃から、その男が店に来なくなったんだとよ。そしたらアイツ段々イライラして、店で身体に触る客を嫌がるようになって、客とトラブルようになったんだってよ。ねんねのガキじゃあるまいし…、それを商売にしてたアイツがだよ…。それから、酒の量がどんどん増えちまって、店で酔い潰れることもあったんだとよ。そんなことしてたら身体を壊すって、ママが心配して、男に連絡して逢えばって言ったんだけど、そんなことをしたら嫌われるって、アイツ…。」
男の顔の皺に涙が沁みていた。
「その男の人のこと…、本当に好きだったのね。水商売の負い目ってのがあって、本気になればなるほど…、辛いわよね。」
ママがしんみりと自分の過去を思い出すかのような口調で言った。
「ママ、もう一杯、お代わり…。」
男が初めてママの顔を見て言った。
「それで、妹さん、その後どうしたの。」
初めはうす気味悪がっていたママも、男の話に、いつの間にか惹き込まれていた。
「…。」
男は悲しみをこらえるように押し黙って天井を見上げた。男の目から又涙が溢れた。少しの間があった。お絞りで涙をぬぐって男は話し始めた。
「妹はよ、間もなくアルコール依存症ってやつになっちまってよ、医者は面倒くさい病名で言うけどアル中だよ。悲しい酒や辛い酒は身体に悪いって言うけど…、本当なんだよ。
そのうち、肝臓を悪くしてよ。体が真っ黄色になっちまって…。」
男は言葉に詰まって、新たな涙を流した。
「…。」
ママも言葉にならず頷くばかりであった。
「…最後は、最後は肝硬変ってやつで…、死んじまった…妹が死んだのは、その男と七夕に行ったって時から一年後の七夕の日だったのよ。アイツ、病院にも行かずに、酒を飲み続けて、すっかり痩せちまって…。オレも、この話を店のママから聞いたのは、妹の通夜の晩なんだ。妹の想いは、星が流れるように消えちまった。儚すぎて、寂しすぎて、それが、辛すぎてよ…。何で七夕の日に死んじまったのか…。お祭りを渡り歩く稼業のオレが七夕の夜だけ、毎年休業って訳よ。オレにとってはたった一人の妹だったからよ。こうして飲んでる。妹が死んじまったことも知らないで、その男が生きているのかと思うと、悔しくてよ…。妹のいた店、三十年ほど前に、そこの大通りの小路に在った喜樂って店なんだけど…、ママ、知らないかなぁ。」
「知らないわ。…。」
私は、喜樂と聞いて言葉を飲み込んだ。
「妹の名前、潤子っていうんだけど聞いたことないかな。」
男は続けた。私は耳を疑った。
「知らないわ。私はその頃はまだ真面目にお勤めしてたから…。」
ママが応えた。
「妹が惚れた男に、もしも会ったら…、ソイツを殺すかも知れない…。お前のせいで妹は死んだんだって…な。」
男の涙はすでに乾いていた。
「やめてくださいよ。そんな物騒な話は…。」
ママが引きつった顔で言った。
「大丈夫だよ。その男の名前は通夜の時に喜樂のママから聞いたけど忘れちまったし、顔も知らないんだ。ダンナが、その男だとしても、オレには判らないんだからよ。」
男は私のほうを向いてそう言うと、グラスに手を伸ばした。男が私の方を向いた時、ニヤリと笑ったように見えた。私はグラスを持った男の左手の小指の第一関節から先がないのに気づいた。
私は背中が凍りつき、額からは冷たい汗が湧き出した。
男は両手で拝むようにグラスを持った。そして、静かにグラスを口に運び、ウィスキーをゆっくりと飲み干した。両手で握ったグラスをコースターの上に、音も無く置いた。