goo blog サービス終了のお知らせ 

団塊オヤジの短編小説goo

Since 11.20.2008・時事ニュース・雑学・うんちく・豆知識・写真・動画・似顔絵師。雑学は、責任を持てません。

コメントについて

「記事に無関係なコメント、誹謗中傷等のコメントは私の判断で削除させていただきます。また、名前の記入のないときは、場合によっては削除させていただきます。ご了承くだい。楽しいコメントをお待ちしています」

都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖

都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

平安貴族が何故お香を焚いていたか?について考える

2009-07-18 13:36:08 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

日本でトイレは、水が豊富だったせいか、神代の昔から「小川の上に板を渡し、その上にまたがって用をたす」という一種の水洗トイレのようになっていました。

やがて、そこに簡単な小屋を掛けて、周囲の視線をさえぎるといったトイレの原型が誕生します。

トイレの昔の呼び方「(かわや)」は、川の上の小屋「川屋」からきている・・・というのが一般的な語源です。

もう一つ、なぜか、トイレは北東=鬼門の方角に造られる事が多く、家の北側にあるので「側屋」が「厠」になったとも言われています。

Photo日本で独立したトイレが登場してくるのは、書院造り武家住宅の建物全体の様式)になって からです。それまでは川に流していたようです。「水に流す」という言葉の語源かもしれませんね。したがって、歴代の宮殿跡を発掘しても、トイレ跡と思われるものはないそうです。

Photo_2 平安時代寝殿造りに暮らす貴族たちは、「樋殿(ひどの)」と2呼ばれる空間に、屏風(びょうぶ)や几帳(きちょう)、御簾(みす)などで間仕切りをして、ここに樋箱(ひばこ) 、と呼ばれる、長方形の箱の底に砂を敷きつめたものに用を足しました。樋とは、雨水を流す樋(とい)のことです。清箱(しのはこ)とも呼ばれていました。十二単(じゅうにひとえ)を着た姫たちが用を足すときは、侍従たちの手も借りて大変だったようです1

平安時代の貴族社会では、朝になるとその中身を野ツボのような所や鴨川に捨てに行ったのだそうです。

その係りのことを「樋洗(ひすまし)」といいます。「樋洗童(ひすましわらし)」とも言われた下級女官です。

 

樋箱(ひばこ)は、いってみれば携帯トイレ」ですから、昼間は片付けておき、夜になると寝所に持ってきたわけです。用がすむと蓋(ふた)をしてそのまま置いておくのだそうです。ですから、どうしても部屋が臭くなります。そこで、その臭いをまぎらわすために「」を焚くのです。

衣類には香りを含ませ、部屋にも香を焚く貴族たちの暮らし。一見優雅に思える貴族たちの暮らし。しかし入浴は五ヶ月に一度という平安時代、香りがなくてはいられなかったのでしょう。

唐様にならった香りの文化が、舶来の香料でオリジナルの香りを調合して感覚の良さをしのばすといった、貴族たちのたしなみのひとつともなりました。

Photo_2 平安貴族の女性は、家族以外の男性に姿を見られてはなりませんでした。部屋も屋敷の奥にあり日差しの入らない薄暗いものでした。めったに外出せず、男性と話す時も御簾(みす)ごし。逢瀬は日が暮れてからなので、男性は相手の女性を手触りや匂いで感じとりました。このためもあって香りの文化が発達し、衣に焚き染められた薫香(くんこう)から、身分や品、センスのよさなどを互いに感じとったのです。

Photo_3  つまり、香を焚き染める習慣は「優雅」の演出と言うよりも必要に迫られていたのです。宮中では、この習慣は明治天皇の東京遷都(せんと)まで続いていたと言われます。

宇治拾遺物語」には平安京四条北の小路が糞まみれであったために「糞小路」と呼ばれたと書いてある。それではあまりに直接的すぎると、鳥羽天皇は「錦小路」にあらためさせたのだそうです。色が同じだからって理由だそうです。あんまりですよね。

 京の都の一般庶民も、糞小路のようなある程度定められた場所で用を足していたようです。近所の人には、大迷惑です。憤慨(糞害)しなかったのでしょうか。

おまけの雑学

 フランスでもブルボン王朝の頃、盛んに香水を振りまいたり、香を焚いたりしたようですが、それも臭いのをまぎらわすのが目的だったのだそうです。宮殿にはトイレがありませんので、「おまる」のような便器で用を足していたのです。あの大きく裾が広がったスカートは、中に「おまる」を入れるためなのです。もちろん、おパンツなどというものは穿いていません。夜はベッドの下の引き出しに、便器を入れておいたのです。

 フランスでは、汚物を窓から道路に捨てていました。だから、道路は石畳で坂になっていたのです。雨が降ると川に流れるようになっていました。どこの貴族もやることは同じだったのですね。

本日は臭い話で申し訳ありません。これを読んで下さいましたみなさまに、運がつきますように・・・。

したっけ。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

もしも、お手すきでしたら、ぽちっとお願いします^^


絵手紙ランキング