都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「平安貴族/牛車」のブログに書いた[盛塩」の起源の説の中にとんでもない説がありましたので紹介しておきましょう。
盛塩の起源が主に京都に残る風習から、妖怪「ぬらりひょん」説というのがあります。「ぬらりひょん」というのは何をしているのかよくわからない妖怪です。ただ妖怪の親玉として解説されています。
そして「ぬらりひょん」は実は「なめくじ」の妖怪だというのです。なめくじの妖怪が玄関から入るのを避けるために塩を盛るというのです。
どうです。凄いでしょう。凄すぎて、可笑しいくらいです。
「ぬらりひょん」は、日本の妖怪。漢字表記は「滑瓢」とされています。また「ぬうりひょん」ともいわれています。古典の妖怪画に老人姿で描かれたものと、岡山県に海坊主の一種として 伝承されているものがあります。
名称の「ぬらり」は滑らかな意味、「ひょん」は奇妙な物や思いがけない意味を表し、転じて「ぬらりひょん」となったのです。ですから「ぬらりひょん」は、ぬらりくらりとつかみどころのない妖怪といわれています。浮世草子「好色敗毒散」には、顔のない鯰のような妖怪が描かれています。
『その形「ぬらりひょん」として、たとえば鯰に目口もないようなるもの、あれこそ嘘の精なれ』と述べられており、瓢箪鯰のようにとらえどころのない妖怪ということです。
または「のっぺらぼう」の一種とする解釈もあります。
したっけ。
平安期の婚姻形式は、通い婚でした。正室・側室(愛人)を持っていたのです。貴族の男性が、牛車(ぎっしゃ)に乗って複数の女性の住む家に通っていました。男性は牛車に乗り「今日は何処で過ごそうか」と、正室・側室廻るのです。
男性を待つ身としては「どうか今宵はお立ち寄り願いたい、どうしたらあの牛車を止める事が出来るのか?何か良い方策はないものか?」と考えたのです。この時点で女の戦いは始まっていたのです。女の戦いは「大奥」に始まったわけではありません。
牛は塩の前では必ず立ち止まるという習性があります。今でも牛屋には塩の塊・岩塩が置いてあります。
側室は屋敷の玄関先に牛の好物の塩を盛ってみたのです。すると、ものの見事に牛車は立ち止まったのです。作戦は 大成功です。「将を射んとすれば馬を撃て、殿方を得んとすれば塩を盛れ」というところでしょうか。
牛が動かなくなってどうしようもないので、男性は、その屋敷の女性のもと に・・・。側室の女性は見事男性の寵愛を受けたというわけです。
着物の「袖が長いわけ」は、通い婚ですから、男性をお迎えした側室はお見送りしなければなりません。ここでも女性は考えました。楽しく過ごしたひとときが大変名残り惜しく、男性に毎日でも逢瀬を願いたい、また来て頂きたい。そんな切ない想いを「さようなら」と短い袖で小さく手を振るよりは、長い袖で大きく振った方が、想いはより一層強く伝わるのではないか。そんな想いを伝える為に袖は次第に丈が長くなっていったのです。
この「振る袖」が「振袖」の語源だったのです。
和泉式部は多くの恋愛をした情熱的な歌人であった。生没年は未詳。
『百人一首』では、以下の歌が収められている。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
(生きてはいけないわ。死んでしまうだろうあの世への思い出に、もう一度あなたとの逢瀬をもちたいわ…。)
「和泉式部日記」 の中には、迎えに来た殿方と出かけ、牛車の中で一晩を過ごしたという記述があります。今で言えばカーセックスというところでしょうか。
女性の地位
中宮(ちゅうぐう=皇后)になると臣下から離れ皇族の扱いになります。
又、中宮職という世話するための役所もできました。
この中宮は「女御」の中から立后して后の地位に登ったのです。
女御(にょうご)は入内の際に、「女御宣下」があり従四位以上の位が与えられます。
女御として入内するには、父親が大臣である事が条件です。(父親が大納言でも女御になっているケースもありました。)
又、平安末期の院政の時代になると、入内しなくても上皇(院)の子供生んだ女房が女御になっていたりしています。
更衣(こうい)。子供を生めば「御息所(みやすどころ)」と呼ばれました。時代が下ると段々この地位はなくなっていきます。
ここまでが、天皇の寝所でのお勤めを行えるのです。ですから、ここまでの女性は、「大奥」並みのバトルが会ったことが、想像されます。
女官
「尚侍(しょうじ)」で従三位の位を持っています。
その下が「内侍(ないし)」でここまでは高級女官です。
女房(にょうぼう)と呼ばれるのは、中宮や女御の私的使用人の女性に対してです。 (紫式部や清少納言などが有名)
女官ではありませんので、無位無官が普通です。
女房の中にも、上臈・中臈・下臈とランクがありました。
牛車(ぎっしゃ)とは、主に平安時代、牛にひかせた貴人用の車。屋形の部分に豪華な装飾を凝らしたものが多く、唐庇(からびさし)の車・糸毛の車・檳榔毛(びろうげ)の車・網代(あじろ)の車・八葉の車・御所車などがあり、位階や公用・私用の別によって乗る車の種類が定められていた。
牛車(ぎゅうしゃ)と呼ぶときは、荷物を引かせる車のことです。
牛飼童 (うしかいわらし)牛車に付き添って牛の世話をする者で、「牛飼」「牛童」ともいう。「枕草子」に「牛飼ひは、大きにて、髪あららかなるが」とあるように、成人後も烏帽子(えぼし)は被らず、老齢になっても童髪である垂髪(すいはつ)のままでいるために、童名で呼ぶのが通例であったのです。
乗り物の一種で、二本の轅(ながえ)の上に屋形を作り付け、大勢の人が担いで、人を乗せて運ぶものです。
大宝令(701年)では、輿(こし)は天皇のみの料(乗り物)とされましたが、皇后や斎王も用いられることもありました。この制度は平安時代になっても変わりませんでしたが、平安時代末には上皇、親王、公卿等も乗るようになりました。
天皇御料の輿(こし)には、身分によって、鳳輦(ほうれん)、葱花輦(そうかれん)、腰輿(たごし)の3つがありました。
つまり、高級官僚は人手を使う「輿(こし)」に乗り、下級官僚は人を雇えないので、牛車(ぎっしゃ)を使っていたのです。
紫式部や清少納言などは下級官僚であったために、自由に出歩き、地方転勤などもありました。そうして見聞を広め、女流文学を生み出したのです。当時は通い婚(夜這い)のため、フリーセックスにちかいものだったようです。この下級官僚たちの日常こそが彼女たちの文学のネタだったのです。
おまけの雑学
料亭など玄関先に塩を盛ってあるのは清める意味もありますが、男性客の足を止め、店に立ち寄らせるという、平安女性と同じ意味なのです。盛塩の風習は平安時代以降廃れましたが、花街の中で受け継がれ、現在に至っているのです。
したっけ。