都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「文(もん)」という通貨単位は、中国の重量単位から来ていろといわれます。
また、「両(りょう)」という重さの単位も、中国では「周(紀元前1046年~256年)」の頃からあったそうです。1両は10文にあたります。
日本でも、「平安時代(794年~1192年)」、すでに「砂金」を紙に包んで、「金何両(きんなんりょう)」と目方を表示したそうです。1両は現在の12gほどだったといわれています。
「金」、「銀」が交換手段として受け入れられたのは、それらが中国との交易に利用できたからです。
室町時代の中期より、金は砂金から延板状の形にして使われるようになりました。
これらの重さは不定で、10g前後から150g近いものまであり、秤量(ひょうりょう)使いされていました。
この形が水性植物の「蛭藻」に似ているところから「蛭藻金(ひるもきん)」、「譲葉」に似ているところから「譲葉金(ゆずりはきん)」などと呼ばれ、「長円形」が一般的なかたちとして採用されました。これが後の大判へと発展していきました。
このような時代環境の下で「越後(新潟県上越市今池・子安。現在の新潟県の本州部分。)上杉氏」、「小田原(小田原市)北条氏」、「周防(山口県東部)大内氏」、「甲斐(山梨県域)武田氏」などの戦国大名は、領内の鉱山を積極的に開発のうえ、鉱山からえた金銀から貨幣を鋳造していました。
これらを総称して「領国貨幣」といいます。「領国貨幣」は、戦国時代から徳川幕府が鋳造した金銀貨が全国に普及するまでの間、約150年にわたって流通していました。
天下を統一した「豊臣秀吉」は、全国の鉱山を支配し、1588年(天正16年)よりそれまでの重量が不定だった「蛭藻金(ひるもきん)」の金貨幣を統一しました。
これが「天正大判」です。この制作には、足利将軍家の金工師だった後藤家があたりました。品位・量目を一定にして品質を保証する「桐」の極印をうち、表面には「十両後藤」と「花押(かおう)」といわれるサインが墨書きされ、大判制作の責任を証明しました。
なお、裏面の墨書きは、当時受け取った者によるものでした。
高額な貨幣のため庶民が使用するものでなく、褒美や贈答用、中国との交易に使われたと伝えられています。
中でもこの大判金は長径171㎜、重量165.4gと大きいため、「天正長大判」と呼ばれました。
関が原の戦いの後、天下統一をはかった徳川家康が幕府政治の裏づけとして経済体制を確立するため全国統一の幣制を定めました。
当時、大判は日常流通することはほとんどないため、大量に流通させる必要のある小判を造りました。
これが、1601年 (慶長6年)に初めて鋳造した金貨「慶長小判」です。重さは17.9gだそうです。
しかし、「大判」と違い、頻繁に流通する小判は、墨書は抹消されやすいので、1600(慶長5)年以降「一両」などの金額、花押などの文字はすべて「刻印」となり、大量生産、大量流通に適したものとなりました。
小判には、表面に額面「壱両」の極印と、金座の責任者である「後藤庄三郎光次」の名前(「光次」の文字)、および花押(署名)が打刻されています。
1860年 (万延元年)発行の「万延小判」まで10種が発行された。
「武田信玄(1521年~1573年、甲斐、山梨)」の「甲州金」、豊臣秀吉(1537年~1598年)の「天正大判」、「小判」、「徳川家康(1543年~1616年)」など、正式の金貨が鋳造された時には、そのまま「両」が貨幣の単位とされました。「両」の4分の1を「分(ぶ)」、そのまた4分の1を「朱(しゅ)」としました。また、「貫(かん)」は「分」と同じで、「文」の千分の1は、「貫」または「分」となります。
「慶長大判」は1601年(慶長6年)頃から1695年(元禄8年)まで鋳造されました。
この大判の重さは、ある資料館では、164.0g、寸法は長径約14.6cm、短径約8.7cmあり、金位は68%となっています。
大判は本来、贈答・献上・公納など特権身分の公私儀礼用あるいは、大規模な取引の支払いにあてるために特製された楕円形の板金です。
これは正規貨幣であり、そのまま市中で通用するものでしたが、通常は小判など小額貨幣に両替されました。
また、大判の表面には、「拾両」と墨書されていますが、その「両」は44匁(165.0g)をあらわす量目の単位であり、小判の「両」が金貨の単位をあらわすのとは異なります。
さて、問題の形状ですが、「小判形」と呼ばれる「楕円形」で表面には全体的に打目が彫られ、上下に扇枠に囲まれた「五三桐(ごさんのきり)」、中央上部に「壹两」(一両)、下部に「光次(花押)」の極印が打たれています。
楕円形、打目、黄金色は、当時武士の「俸禄」米の石高であったため、米俵の形状、俵目、色彩に由来するとの説があります。
また反論も多くあり、内部まで金であることを証明するため打ち伸ばした「蛭藻金」や「譲葉金」の形状に起源を持つとする説や、打目も内部まで金であることを示すために刻まれたものであるとする説。
あるいは金地金を打ち伸ばすときに槌(つち)や鏨(たがね)によってどうしても付く傷であるなどといった説もあります。
江戸時代、金貨、銀貨などの鋳造、鑑定、発行は、江戸幕府直轄の、「金座(きんざ)」、「銀座(ぎんざ)」で行いました。
したっけ。