年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

下肥は肥料

2006年04月02日 | 宅老のグチ
少し前の日本の都市おいての汚物処理方法は、ヨーロッパの都市とはいささか異なっている。日本農業においては肥料として下肥を必要としていたのではないだろうか。下水道のなかった時代のヨーロッパの都市では、路地裏に糞尿が溢れていたが、江戸では人間の排泄物を近郊の農家が回収に来てくれたのだった。江戸の人々にとって、自らの排泄物は始末に困るどころか、有効な資源(金肥)して意識され、定期的に回収に来てくれるので処理に困ることはなかった。
東京で糞尿の汲み取り料金、つまり、汲み取ってもらう側が相手に金を支払うようになったのは大正7年になってからです。それまでは肥料問屋や農家が、肥料代としてお金を払って汲み取り(下掃除)に来ていました。
 江戸時代、主要な商品肥料として取引されたものに「下肥(人糞尿)」、「植物油粕」、「魚肥」があり、「下肥(人糞尿)」に関しては、戦国時代末期・宣教師ルイス・フロイスが「我々はを運び去る人に金を払う。日本では、それを買い、その代償に米と金とを払う」と書き記している。ここから、糞尿を民家などから買い取ってあったということがわかります。
 商品肥料として取引された「下肥(人糞尿)」は、江戸では葛西舟と呼ばれる舟で運搬されました。「下肥(人糞尿)」の水田での使用量は一反につき20荷(肥桶1桶が1荷で、「下肥(人糞尿)」を運ぶ舟(肥舟)一艘で50荷が運べる)を入れると米が良くできるとされ、1町歩の水田を作るには200荷の肥桶が必要でした。
 江戸時代の農業技術書「百姓伝記」には「下肥(人糞尿)」の品質に関して、「いつもご馳走を食べ、魚を食べている人の糞尿は作物によく効く、これに反して粗食の人のものは効果が少ないものであるから、繁盛している土地の糞尿を取って肥料としている村は、穀物、野菜がよくできる」と記載されています。

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