東京都中野区鷺宮は幕府時代から,水田以外あらゆる畑に藍草を植え付けた産地でしたがドイツ製の優良なる化学染料が輸入されて、日本産の染料(藍)を圧倒しみるみる価格が暴落しました。練馬の隣なので藍草の代わりに大根を栽培することが藍草暴落のあと盛んになりました.我も我もと真似して栽培したので大根が生産過剰になり困り果てていました。明治27年、日清両国の談判が決裂し戦争が始まりました。朝鮮で戦争している時、日本は大根どころのさわぎでありませんでした。農民は大根に土をかぶせ、腐らせて肥料にするしかないと考えていました。そこに、藍草の暴落で破産寸前までになった大野家の青年・又蔵の耳に大根の状況の話が入りました。
「ただ捨てるようなゴミでさえ利用の仕方でいくらでもある世の中だのに、半年以上の労力と金をつぎ込んで美しく育てた大根をムザムザと腐らせてしまうのはもったいない話だ。何とかこれを利用してやる工夫はあるまいか。あるとすれば、村全体の利益になるし自分にも利益となる」と考えた。彼は藍草暴落で失った土地を買い戻すため、コツコツ貯めた金で農家から大根を安く買い占めました。そして、東京に行き酒屋から空の酒樽を買い集め、買い取った大根を洗い日干しにして、酒樽に漬け込みました。これがタクワン王の始まりでした。明治の中頃まで東京市内でも郡部でも、家庭用の漬物は青物(野菜)を買い入れて各家庭で漬けていました。わずかな料理店で漬物を少量購入するだけで商品として販売されていませんでした。このことに目をつけた又蔵は塩や糠の加減を調整しうんと味の良い沢庵を作り東京の漬物問屋に販売しました。又、彼は軍隊に納入し、日清戦争に出征中の兵士に提供したところ、好評でたちまち数百樽売りつくしました。この評判が全国に伝わり横浜・大阪方面から大量の注文が入りました。また、中国大陸に販路を広げ、日露戦争時に軍需の沢庵漬の利益で藍草の暴落で失った財産を取り戻しました。
昭和12年、又蔵の沢庵漬は海外(中国・台湾)に2万樽(4斗樽・70kg入り)輸出されていました。つまり、140万kg輸出していました。ちなみに、昭和36年の1月から8月の期間に日本の税関の統計によると、32万5千kgで、その輸出先は当時アメリカの占領下の琉球でした。また、彼の沢庵は国内にも輸出と同じくらい販売されていました。又蔵の沢庵輸出量の多さがわかります。
又蔵の沢庵漬の工夫とは甘味をつけ、着色したことでした。日本で沢庵漬を販売のために始めてウコンで黄色く着色したことでした
昭和40年代、まだ寿司ブームの前、日本食品の輸出のことを業界用語で(たくわん貿易)と言っていました。彼が沢庵漬を海外に広めた人で、韓国語でも沢庵漬を“タックワン”と言うそうです。
参考
化学藍
1880年(明治13年)ドイツで合成に成功し世界に広がった。化学藍はインディゴピュアが代表的な物だが他に、ヒアインディゴ、ニアインディゴなど色調が異なる化学染料もある。
同様にアニリン系の赤色染料の大量流入により、明治10年に紅花栽培は急速に衰退しました。ドイツから化学染料は衣類の着色だけでなく、食品にも使用されました。そのため、明治11年、わが国の食品衛生に関する最初の法規として、『アニリン其ノ他鉱属物性ノ絵具染料ヲ以テ食物ニ着色スルモノノ取締方』が施行されました。これは、食品に有害な着色料の禁止についての規則です
「ただ捨てるようなゴミでさえ利用の仕方でいくらでもある世の中だのに、半年以上の労力と金をつぎ込んで美しく育てた大根をムザムザと腐らせてしまうのはもったいない話だ。何とかこれを利用してやる工夫はあるまいか。あるとすれば、村全体の利益になるし自分にも利益となる」と考えた。彼は藍草暴落で失った土地を買い戻すため、コツコツ貯めた金で農家から大根を安く買い占めました。そして、東京に行き酒屋から空の酒樽を買い集め、買い取った大根を洗い日干しにして、酒樽に漬け込みました。これがタクワン王の始まりでした。明治の中頃まで東京市内でも郡部でも、家庭用の漬物は青物(野菜)を買い入れて各家庭で漬けていました。わずかな料理店で漬物を少量購入するだけで商品として販売されていませんでした。このことに目をつけた又蔵は塩や糠の加減を調整しうんと味の良い沢庵を作り東京の漬物問屋に販売しました。又、彼は軍隊に納入し、日清戦争に出征中の兵士に提供したところ、好評でたちまち数百樽売りつくしました。この評判が全国に伝わり横浜・大阪方面から大量の注文が入りました。また、中国大陸に販路を広げ、日露戦争時に軍需の沢庵漬の利益で藍草の暴落で失った財産を取り戻しました。
昭和12年、又蔵の沢庵漬は海外(中国・台湾)に2万樽(4斗樽・70kg入り)輸出されていました。つまり、140万kg輸出していました。ちなみに、昭和36年の1月から8月の期間に日本の税関の統計によると、32万5千kgで、その輸出先は当時アメリカの占領下の琉球でした。また、彼の沢庵は国内にも輸出と同じくらい販売されていました。又蔵の沢庵輸出量の多さがわかります。
又蔵の沢庵漬の工夫とは甘味をつけ、着色したことでした。日本で沢庵漬を販売のために始めてウコンで黄色く着色したことでした
昭和40年代、まだ寿司ブームの前、日本食品の輸出のことを業界用語で(たくわん貿易)と言っていました。彼が沢庵漬を海外に広めた人で、韓国語でも沢庵漬を“タックワン”と言うそうです。
参考
化学藍
1880年(明治13年)ドイツで合成に成功し世界に広がった。化学藍はインディゴピュアが代表的な物だが他に、ヒアインディゴ、ニアインディゴなど色調が異なる化学染料もある。
同様にアニリン系の赤色染料の大量流入により、明治10年に紅花栽培は急速に衰退しました。ドイツから化学染料は衣類の着色だけでなく、食品にも使用されました。そのため、明治11年、わが国の食品衛生に関する最初の法規として、『アニリン其ノ他鉱属物性ノ絵具染料ヲ以テ食物ニ着色スルモノノ取締方』が施行されました。これは、食品に有害な着色料の禁止についての規則です