江戸末期から明治初めにかけて、練馬地区の肥料とし自給肥料(刈敷き・牛馬の糞・下肥等)が主であったが、明治の中頃から、魚肥・酒粕などの金肥(購入肥料)が多く使用された,日清戦争の後、満州(中国東北部)から大豆粕が魚肥に取って変わって使用された。大根の栽培のだら肥が使われていましたが農家の女性には嫌われていました。
だら肥とは下肥溜めの腐熟堆肥、草木灰、米糠を加え肥溜めの外でよく練ったもので練馬の冬の気候にあった肥料で霜柱を抑える役目もありました。練馬では昭和35年頃から清浄栽培が始まり、昭和37年には下肥の使用はなくなった。