徳島県のタクワンは阿波タクワンと呼ばれ、大正から昭和初期にかけて、全国一の生産量を誇った大根の漬物です。
明治中期、化学染料の登場で衰退し始めた藍にかわり吉野川下流域の畑作地で漬物用の大根が作られるようになります。大正時代の徳島市民の食生活は麦飯にタクワンが主流でした。徳島県は米が幕府時代から不足していたためです。大根を天日に干して10日ほどつけ込んだタクワンは阪神市場に出荷され、その品質の良さからやがて全国へ広まりました。昭和の始めには、東京市場にも鉄道輸送で入ってきました。
大正12年にはおよそ28万樽(1樽70kg)が徳島で作られ、全国のタクワン生産高の2割を占めていました。台湾や朝鮮にも輸出されていました。昭和20年代まで徳島は全国一のタクワン産地だったのです。
阿波晩生。
この大根が阿波たくあんの人気を支えました。たくあん用に品種改良された大根です。昭和の始めに県の農業試験場で生まれた阿波晩生は当時、「たくあんに最適の大根」として高い評価を受けました。品種改良の成功で阿波たくあんの人気はゆるぎないものになったかに思われました。しかし、阿波晩生には重大な弱点があったのです。
昭和25年、大根のウイルス病が発生し阿波晩生に大きな被害がでました。
阿波たくあんの生産量はこの年、激減。漬物業界は大打撃を受けます。あわてて県は品種改良に取り組みました。県は病気に強い新しい品種「阿波新晩生」を作り挽回をはかりました。しかし、出荷の減った時期に他の産地に市場を奪われたことなどが原因で阿波たくあんが再び全国一の座につくことはありませんでした。このあと徳島のタクワン作りは衰退の一途をたどります。現在、徳島でタクワンを出荷している漬物業者は数少なくなりました。消費者が浅漬けを好むようになったこともタクワン離れに拍車をかけました。徳島県の漬物業界は冬は野沢菜の産地となっています。数少ない国産漬物原料の産地です。
明治から昭和初期にかけて全国の人々が支持した「阿波たくあん」の名声は時代や食生活の変化とともに忘れ去られようとしています。
ねじり干し大根
タクワンの漬け込みのとき,樽に入りきれなくて.ハザに春まで掛け干して置いてシワだらけになり,固く茶色になった大根をはりはり漬、味噌漬,五分漬にして食べてました。
明治中期、化学染料の登場で衰退し始めた藍にかわり吉野川下流域の畑作地で漬物用の大根が作られるようになります。大正時代の徳島市民の食生活は麦飯にタクワンが主流でした。徳島県は米が幕府時代から不足していたためです。大根を天日に干して10日ほどつけ込んだタクワンは阪神市場に出荷され、その品質の良さからやがて全国へ広まりました。昭和の始めには、東京市場にも鉄道輸送で入ってきました。
大正12年にはおよそ28万樽(1樽70kg)が徳島で作られ、全国のタクワン生産高の2割を占めていました。台湾や朝鮮にも輸出されていました。昭和20年代まで徳島は全国一のタクワン産地だったのです。
阿波晩生。
この大根が阿波たくあんの人気を支えました。たくあん用に品種改良された大根です。昭和の始めに県の農業試験場で生まれた阿波晩生は当時、「たくあんに最適の大根」として高い評価を受けました。品種改良の成功で阿波たくあんの人気はゆるぎないものになったかに思われました。しかし、阿波晩生には重大な弱点があったのです。
昭和25年、大根のウイルス病が発生し阿波晩生に大きな被害がでました。
阿波たくあんの生産量はこの年、激減。漬物業界は大打撃を受けます。あわてて県は品種改良に取り組みました。県は病気に強い新しい品種「阿波新晩生」を作り挽回をはかりました。しかし、出荷の減った時期に他の産地に市場を奪われたことなどが原因で阿波たくあんが再び全国一の座につくことはありませんでした。このあと徳島のタクワン作りは衰退の一途をたどります。現在、徳島でタクワンを出荷している漬物業者は数少なくなりました。消費者が浅漬けを好むようになったこともタクワン離れに拍車をかけました。徳島県の漬物業界は冬は野沢菜の産地となっています。数少ない国産漬物原料の産地です。
明治から昭和初期にかけて全国の人々が支持した「阿波たくあん」の名声は時代や食生活の変化とともに忘れ去られようとしています。
ねじり干し大根
タクワンの漬け込みのとき,樽に入りきれなくて.ハザに春まで掛け干して置いてシワだらけになり,固く茶色になった大根をはりはり漬、味噌漬,五分漬にして食べてました。