紫衣事件の流罪が解かれて江戸に滞在したとき,沢庵は”大名好き“のとの批判があったらしい。(中公新書・沢庵) 諸大名が沢庵に茶の湯を通じて、幕府の大目付の柳生宗矩、老臣会議、家光の情報を知りたかったのではないのだろうか。単なる大根の糠漬が家光よって沢庵漬と命名され、日本の各地にあった大根の糠漬が沢庵漬という名になってしまったのでないだろうか。
沢庵禅師書簡集には島原の乱の記述が実に詳しく、かなり、沢庵に国内の情報が柳生宗矩らを通してはいっていたと思われる。また、沢庵は柳生宗矩に向かって息子・柳生十兵衛の行動に不満を持っていたのを叱りつけている。また、宗矩の能好きに対して、他の人に好みを押し付けるのは良くないと忠告している。
晩年の沢庵
家光は70回以上訪問したが,他にしばしば訪ねて来る大名や公家と禅や和歌、茶の湯を通じて交わり,禅者でもあり同時に江戸一流の文化人として有名であった。
大名の処分
江戸幕府の大名処罰は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、戦後、敵対した西軍大名106家を処分したことから始まる。これ以後、大名廃絶政策は江戸幕府の大名統制の根幹をなすものとしてさかんに実施され、江戸時代初期は豊臣色の濃い外様大名、徳川一門の中の反宗家勢力が、幕府の安泰のために処分された。徳川の初期3代だけで実に122家の大名が改易・減封に処せられ、4代将軍家綱の頃には幕府の脅威となる勢力の掃滅はほぼ完了した。
従って、大名にとって、大名処罰の基準の情報は重要であったと思われる。
沢庵禅師書簡集には島原の乱の記述が実に詳しく、かなり、沢庵に国内の情報が柳生宗矩らを通してはいっていたと思われる。また、沢庵は柳生宗矩に向かって息子・柳生十兵衛の行動に不満を持っていたのを叱りつけている。また、宗矩の能好きに対して、他の人に好みを押し付けるのは良くないと忠告している。
晩年の沢庵
家光は70回以上訪問したが,他にしばしば訪ねて来る大名や公家と禅や和歌、茶の湯を通じて交わり,禅者でもあり同時に江戸一流の文化人として有名であった。
大名の処分
江戸幕府の大名処罰は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、戦後、敵対した西軍大名106家を処分したことから始まる。これ以後、大名廃絶政策は江戸幕府の大名統制の根幹をなすものとしてさかんに実施され、江戸時代初期は豊臣色の濃い外様大名、徳川一門の中の反宗家勢力が、幕府の安泰のために処分された。徳川の初期3代だけで実に122家の大名が改易・減封に処せられ、4代将軍家綱の頃には幕府の脅威となる勢力の掃滅はほぼ完了した。
従って、大名にとって、大名処罰の基準の情報は重要であったと思われる。