年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

堀丹後守直寄と沢庵の関係

2006年04月29日 | タクワン
 紫衣事件の時
寛永6年・2月、江戸に於いて沢庵らの詮議が始まった。(細川家実記)によると、藤堂高虎、金地院嵩伝,天海らを交えて評議していた。
 このとき、江戸神田の大徳寺派広徳寺に滞在していた沢庵ために、柳生宗矩、堀直寄は沢庵らの処分を軽くするよう奔走していた。
寛永13年,故郷の人への沢庵の書簡によると、多くの人が紫依事件へのかかわりを避けていて,柳生宗矩と堀直寄だけは違って、ある時は沢庵と芳春院玉室を篭に乗せ、自分たちは馬に乗って、天海や年寄衆へ取り成しのために奔走したと記述している。
 出羽の国、上山に流罪になってのち、堀直寄への書簡には沢庵の当時の心境が述べられている。
「この度、宗門のことについて、真っ正直なことを言ったために幕府のご機嫌を損じ、出羽の国まで流罪になったことは二代三代の後まで、人々の語り草になるでしょう。世間での評判とはいえ来世にあっても話題と残れば満足です。心にやましいことがなければ、体の苦しみは何とも思いません。心をむなしくして、身の安心を計ることは自分の望まないことです。」
 柳生宗矩と沢庵の関係は宗矩が若き日京都大徳寺参禅のおり知り合ったとされている。とにかく沢庵が紫衣事件の時には前後7年にわたって江戸に滞在している時も、上山にても,赦免の後も筆舌に尽くしがたい直寄の世話を受けたと故郷の人への書状に書かれている

堀直寄とはどんな人だろう?
コメント
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