明治40年10月20日東京朝日新聞
恵比寿について 清水清風翁談
恵比寿は関西が本場で大黒が関東に極まっているのが面白い。九州なども恵比寿を祭ることは中々盛んなもので、路傍などに石の恵比寿が沢山祭ってある。○関東の恵比寿というと深川の恵比寿河岸にたった一ヶ所あるばかり、その代わり恵比寿大黒と組んだものなら何処にも転がっている。深川の恵比寿(深川区数矢町)を除いても単独のものというと向島と谷中の七福神であろう。それも別に祭ってあるというものの、つまり七福が連帯なのだから、おお威張りの恵比寿とはいえないのだ。△少し毛色の変わっているのは瀬戸物町の恵比寿大神、しかしこれも福徳稲荷の合神でただ相手が大黒でないというばかり。要するに関東は大黒の縄張り地であるのだ。中略△恵比寿でチョッと面白く感じたのは以前大伝馬町に亀屋和泉という菓子屋があった、べったら市の当日柏餅を売出し景品として団扇を配ったがその絵は直信の筆で今の恵比寿ビールの商標とちっとも違いはない。△またこのべったら市が恵比寿宮も何にもない、大伝馬町辺りに開かれるのは理屈に合わないようにだが、付近は大店揃いの所から,この市が立つようになったものらしい。途中略△二十日の恵比寿講というと以前は中々盛んなもので、自分の小僧時代などでは一年中で一番楽しみな日であった。家々によって顧客や懇意の人を招いて盛んに供応したものである。△式が済むと山のように積んだ雑貨の福引やせりをやる。その呼び値も一万両とか言って、真面目な顔をしてソロバンを弾く所がいかにも面白い。然れば商人が馬鹿な価格を吹くのを恵比寿講商いと言う。今の若い人はチョット分からないと思う。
深川の恵比寿神は今の江東区富岡にある。昭和6年、従来の富岡門前町と数矢町などいくつかの町を合わせてできた(数矢町は江戸時代浅草の三十三間堂がこの地に移り、遠矢の数を競い合ったところからその名がある)。
恵比寿について 清水清風翁談
恵比寿は関西が本場で大黒が関東に極まっているのが面白い。九州なども恵比寿を祭ることは中々盛んなもので、路傍などに石の恵比寿が沢山祭ってある。○関東の恵比寿というと深川の恵比寿河岸にたった一ヶ所あるばかり、その代わり恵比寿大黒と組んだものなら何処にも転がっている。深川の恵比寿(深川区数矢町)を除いても単独のものというと向島と谷中の七福神であろう。それも別に祭ってあるというものの、つまり七福が連帯なのだから、おお威張りの恵比寿とはいえないのだ。△少し毛色の変わっているのは瀬戸物町の恵比寿大神、しかしこれも福徳稲荷の合神でただ相手が大黒でないというばかり。要するに関東は大黒の縄張り地であるのだ。中略△恵比寿でチョッと面白く感じたのは以前大伝馬町に亀屋和泉という菓子屋があった、べったら市の当日柏餅を売出し景品として団扇を配ったがその絵は直信の筆で今の恵比寿ビールの商標とちっとも違いはない。△またこのべったら市が恵比寿宮も何にもない、大伝馬町辺りに開かれるのは理屈に合わないようにだが、付近は大店揃いの所から,この市が立つようになったものらしい。途中略△二十日の恵比寿講というと以前は中々盛んなもので、自分の小僧時代などでは一年中で一番楽しみな日であった。家々によって顧客や懇意の人を招いて盛んに供応したものである。△式が済むと山のように積んだ雑貨の福引やせりをやる。その呼び値も一万両とか言って、真面目な顔をしてソロバンを弾く所がいかにも面白い。然れば商人が馬鹿な価格を吹くのを恵比寿講商いと言う。今の若い人はチョット分からないと思う。
深川の恵比寿神は今の江東区富岡にある。昭和6年、従来の富岡門前町と数矢町などいくつかの町を合わせてできた(数矢町は江戸時代浅草の三十三間堂がこの地に移り、遠矢の数を競い合ったところからその名がある)。