カレッタ汐留のアドミュ-ジアム
明治時代の引札(今のチラシ広告)を見るために新橋駅前にあるカレッタ汐留のアドミュージアムを訪問した。江戸時代から明治の中頃までは日本の広告の基礎とも言える時代で商人が広告として色々工夫して宣伝を行っていた。特に明治の初期は上野池之端の守田宝丹(宝丹)と岸田吟香(精水・せいきすい=目薬)の二人は薬の宣伝で有名であった。
特に池之端の守田宝丹の薬(宝丹)は幕末の文久2年(1862年)に発売し、コレラなどの予防薬として重宝されたようだ。商品としての「宝丹」を明治新政府に申請し、第1号公認薬として認可された。また守田宝丹は、宝丹の販売のために、新聞広告をはじめとして、PR誌を創刊したり、ポスター・看板・引札(ちらし)などを活用した。また歌舞伎の役者や落語家に「宝丹」のセリフを言わせたりして明治広告の先導者でもあった。
同じ町内にあった福神漬の創始者(酒悦)主人野田清右衛門にも商品の宣伝方法について影響を与えたと思われる。
明治時代の引札(今のチラシ広告)を見るために新橋駅前にあるカレッタ汐留のアドミュージアムを訪問した。江戸時代から明治の中頃までは日本の広告の基礎とも言える時代で商人が広告として色々工夫して宣伝を行っていた。特に明治の初期は上野池之端の守田宝丹(宝丹)と岸田吟香(精水・せいきすい=目薬)の二人は薬の宣伝で有名であった。
特に池之端の守田宝丹の薬(宝丹)は幕末の文久2年(1862年)に発売し、コレラなどの予防薬として重宝されたようだ。商品としての「宝丹」を明治新政府に申請し、第1号公認薬として認可された。また守田宝丹は、宝丹の販売のために、新聞広告をはじめとして、PR誌を創刊したり、ポスター・看板・引札(ちらし)などを活用した。また歌舞伎の役者や落語家に「宝丹」のセリフを言わせたりして明治広告の先導者でもあった。
同じ町内にあった福神漬の創始者(酒悦)主人野田清右衛門にも商品の宣伝方法について影響を与えたと思われる。