小栗上野介の遺児国子
小栗上野介夫人は密かに会津で遺児国子を出産した。明治2年春会津をたって東京へ出、さらに静岡まで行った。そのころ静岡には徳川慶喜に従って、小栗又一の実家の旗本駒井家や、夫人の妹はつがとついだ蜷川家が神田から移り住んでいた。
小栗の未亡人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭・三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年死んだ時大隈重信へ保護を依頼した。大隈の保護の下で遺児国子は嫁ぐまで三野村家の助情金で育てられた。
大隈重信の妻綾子は三枝という旗本の娘であり、小栗家とは親戚同士だったのだ(上野介と綾子は従兄妹)。大隈重信は小栗上野介の遺児である国子に大隈門下の矢野龍渓の弟の貞雄を養子に迎えて小栗家を再興させた。小栗貞雄は大隈の改進党から出馬して代議士を一期勤めている。
明治の時に食通と知られていたのは九代目市川団十郎と大隈重信であった。明治のベストセラーの小説・村井弦斎の『食道楽』台所風景の絵は大隈重信の家をモデルにしていると言う。森田思軒を『高級食客』と評した小栗(矢野)貞雄の味覚はこのような背景があった。
小栗上野介夫人は密かに会津で遺児国子を出産した。明治2年春会津をたって東京へ出、さらに静岡まで行った。そのころ静岡には徳川慶喜に従って、小栗又一の実家の旗本駒井家や、夫人の妹はつがとついだ蜷川家が神田から移り住んでいた。
小栗の未亡人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭・三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年死んだ時大隈重信へ保護を依頼した。大隈の保護の下で遺児国子は嫁ぐまで三野村家の助情金で育てられた。
大隈重信の妻綾子は三枝という旗本の娘であり、小栗家とは親戚同士だったのだ(上野介と綾子は従兄妹)。大隈重信は小栗上野介の遺児である国子に大隈門下の矢野龍渓の弟の貞雄を養子に迎えて小栗家を再興させた。小栗貞雄は大隈の改進党から出馬して代議士を一期勤めている。
明治の時に食通と知られていたのは九代目市川団十郎と大隈重信であった。明治のベストセラーの小説・村井弦斎の『食道楽』台所風景の絵は大隈重信の家をモデルにしていると言う。森田思軒を『高級食客』と評した小栗(矢野)貞雄の味覚はこのような背景があった。