千葉県の明治23年7月第一回衆議院選挙で佐原の辺りの選挙区では大須賀庸之助が当選した。同じ選挙区で立候補していた自由党の花香恭次郎は3位で落選した。
明治16年頃、日本赤十字社創立人佐野常民が千葉・佐原地方を視察した折、当地の郡長だった大須賀庸之助は佐野に伊能忠敬の業績を知らせたと推測される。間もなく佐野常民は「故伊能先生事蹟」を著した。その後大須賀は伊能忠敬先生の贈位運動を始めた。当時の東京地学協会の代表者は北白川親王でした。この方は上野戦争の時、彰義隊に担ぎあげられた、上野寛永寺の輪王寺宮でした。東京地学協会の設立者の中に榎本武揚がいた。
幸田露伴の2度にわたる少年向けの小説で「伊能忠敬」の最後に北白川親王の発起による贈位の文が出てくる。露伴は上野寛永寺の門前の下谷で維新直前に生まれた。従って北白川親王がどの様な人物であったか周知のことだった。特に最初の露伴の小説「伊能忠敬」はまだ北白川親王が明治28年に台湾で戦病死する以前だった。また幸田露伴の兄、郡司大尉は千島探検した位の人だった。
旧幕臣の縁者・子孫は明治の半ば頃からあらゆる機会を利用して戊辰戦争のあと反逆者であったことから名誉回復・復権運動をしていた。幸田露伴は小説「伊能忠敬」で北白川親王の名誉回復運動をしていたように思える。
福神漬の史料調査をしてゆくと、当時の旧幕臣関係者の名誉回復運動と重なる。それは明治維新後の欧風化・近代化路線を見なおす運動の時期でもあった。福神漬がカレーライスに付いていても不思議ではないのは創製された時期が複雑な和と洋のせめぎ合いの時期だった。
明治16年頃、日本赤十字社創立人佐野常民が千葉・佐原地方を視察した折、当地の郡長だった大須賀庸之助は佐野に伊能忠敬の業績を知らせたと推測される。間もなく佐野常民は「故伊能先生事蹟」を著した。その後大須賀は伊能忠敬先生の贈位運動を始めた。当時の東京地学協会の代表者は北白川親王でした。この方は上野戦争の時、彰義隊に担ぎあげられた、上野寛永寺の輪王寺宮でした。東京地学協会の設立者の中に榎本武揚がいた。
幸田露伴の2度にわたる少年向けの小説で「伊能忠敬」の最後に北白川親王の発起による贈位の文が出てくる。露伴は上野寛永寺の門前の下谷で維新直前に生まれた。従って北白川親王がどの様な人物であったか周知のことだった。特に最初の露伴の小説「伊能忠敬」はまだ北白川親王が明治28年に台湾で戦病死する以前だった。また幸田露伴の兄、郡司大尉は千島探検した位の人だった。
旧幕臣の縁者・子孫は明治の半ば頃からあらゆる機会を利用して戊辰戦争のあと反逆者であったことから名誉回復・復権運動をしていた。幸田露伴は小説「伊能忠敬」で北白川親王の名誉回復運動をしていたように思える。
福神漬の史料調査をしてゆくと、当時の旧幕臣関係者の名誉回復運動と重なる。それは明治維新後の欧風化・近代化路線を見なおす運動の時期でもあった。福神漬がカレーライスに付いていても不思議ではないのは創製された時期が複雑な和と洋のせめぎ合いの時期だった。