年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬の由来を遡ると

2011年04月23日 | 福神漬
儒者佐藤一斎が浅草源空寺にある伊能忠敬の墓誌を書いた経緯は江戸時代の天文学事情を書いた本から知った。佐藤一斎はペリー来航時、アメリカ国書を翻訳した6人の中の一人である。福神漬の由来を追及するとこのあたりの時代まで遡ることとなる。日本史の時代区分で『幕末』は何時頃から始まるか?という命題がある。これには二つの見方があってペリー来航時と享保の改革頃からという考えがある。福神漬の由来関連からみるとやはり享保の改革前後の事情も取り入れないと、花香恭次郎や長井昌言・鶯亭金升の話にならない。
 『増修日本数学史』には内田恭(五観・弥太郎)は50箇所ほど出てくるが、花香恭法・安精は出てこない。高野長英の逃亡先として出てくる花香恭法は内田弥太郎(五観)の学問上の弟子であったことは事実なのだろうか。
 ペリーの国書を浦賀で戸田伊豆守氏栄が受け取ったとき、戸田の後ろで警備していたのは下曽根金三郎だった。当時の記録にはでてこないが下曽根の下で浦賀で内田弥太郎は働いていた。(維新史綱要 嘉永2年6月5日 幕府、小姓組下曽根信敦「後信之・金三郎・後甲斐守」を浦賀に遣し、砲術教授及警備勤務を命ず。尋で、門人内田弥太郎「浦賀奉行手付」を信敦に付属せしむ。)下曽根は南町奉行だった筒井政憲の子であった。筒井はペリーの国書を翻訳した6人の一人でもある。戸田伊豆守氏栄の3男は筒井の斡旋で長井家に養子となり、長井昌言となった。戸田伊豆守氏栄の5男である花香恭次郎が内田弥太郎の斡旋で、内田の学問上の弟子である花香恭法が引き取ったのではないのだろうか。

自由民権運動 福島事件被告人 花香恭次郎 この事件のころ福神漬は命名された。
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