今のJR山手線鶯谷駅と日暮里間の開通によって、移転された御隠殿の所に益田克徳(非黙)の茶室があった。彼は三井物産の初代社長益田孝の弟で東京海上火災保険の初代支配人でもあった。
明治12年頃、益田克徳は根岸に居を移し、兄の影響で不白流茶道川上宗順の指導を受けていました。明治10年代の実業家で海外から帰った人の中には日本文化の中にも誇れるものがあると感じ始めていました。特に下谷の気風は薩長政権に対する反発心が花柳界から一般住民までありました。文明開化に付き合える人とちょん髷に代表される懐古の気風がまだ多数を占めていたのが下谷の当時だったようです。
益田克徳の明治10年代の茶室に集まった人は今の茶道の雰囲気とは随分違った様子だったようです。茶のあとで三遊亭円朝の落語が一席あったり、清元お葉が演じていたという。根岸派の茶席には余興があったようです。明治の後半になると益田の元に茶道具屋が集まり、今の茶道の形となっていたようです。近代数奇屋茶人の祖ともいえるのが益田克徳です。
福神漬の関連事象を調べていると不思議な縁を感じます。明治16年から23年頃に
根岸に集った人達から福神漬が口コミ宣伝で広まっていたようです。
ついでに東京海上火災保険会社は創立時には京橋区南茅場町23であった。(明治7年創立)
益田克徳(非黙)の茶室に集った人の中に池之端御前の福地桜痴、浅田正文(日本郵船)千葉勝五郎(歌舞伎座創業主)がいる。明治23年福地が借金返済のため、隣地に住んでいた浅田が買い取った。この隣地のなかにあった家に新婚の鶯亭金升が住んでいた。