年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

タクワンの話2013-10

2013年08月30日 | タクワン

日本各地のタクワン
山川漬
今から40年以上も前、山川漬の漬け込み風景を見ました。干した大根を杵でたたき、海水を降りかけ、また干していました。これを何度か繰り返し、人が入って漬けることが出来る大きな甕(壷)に海の塩味つき干し大根を漬けていました。重石を掛けない大根の漬物です。真っ黒で完璧に干され漬けた大根は薄く切って三杯酢で食べるとおいしい。
山川漬の由来
 山川漬は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、薩摩武士が地元を船出する時、この地方の農家から兵食用として徴発されたのがこの山川漬であった。山川漬はこの地方に朝鮮出兵の以前から製造されていて、当時の名前は「唐漬(からつけ)」といわれていた。山川港は島津藩から正式に貿易港と指定する以前より密貿易港として栄えていた。その頃、明の国(今の中国)から貿易商人として山川に渡来して一画の街をなしていた。また唐商人の手を経て輸入されたのが山川漬になくてはならぬ容器(土器甕)であった。
 山川地方の土壌は火山灰地で大根の栽培に最も適しており、その上(大根の収穫期には東シナ海から吹き上げて来る季節風に干した大根を海水に浸し漬けこみ土器に密閉して仕上げたのがそもそも山川漬である。
 こうした 風土 季節風 土器 の三拍子揃って始めて山川漬としての風味がつくもので、この地方以外は真似ることができない漬物である。 
 この唐漬も時代の変遷と共に昭和の時代に山川漬あるいはツボ漬と呼ぶようになった。現在では唐漬と言う人は稀で、山川漬と言う人が多い。現在、山川町はカツオ節製造として全国一をうたわれ、山川町役場の人や町の人、生産者は異口同音にツボ漬でなく山川漬として一本に絞り全国に広めたいとおもっている。
9月下旬、鹿児島県山川町の畑に、練馬大根の種がまかれます。肥えた火山土壌が大根を育てます。1反(10R)あたり1.6Lの種をまきます。2回の間引きの後、種まき後65日から75日で収穫します。
秋から冬に育った大根を、一番寒い12~1月に畑にヤグラを組んで干し、寒風にさらし,乾燥期間20日から25日をかけます。1本の干し大根の重量が100Gから120Gとなるようにします。東シナ海の季節風が冷たいほど美味しい漬物ができるといわれます。干された大根を、今度は塩水をかけながらキネで一本一本つきます。海水が最高だったそうです。これは大根の旨みを引き出すための大切な工程で大根の品質を均一にし、汚れを落とす作業で、こうしてクタクタになった大根を再び日干しし大根の水分が切れるまで乾燥します.つぎに大根自体に充分塩がつくように,手で一本一本に塩をまぶします。現在使用中の甕は焼酎製造されていた甕で500KG入りの甕で大人も楽に甕の中で漬けこみ作業ができます。大きな壺に塩モミのできた大根を底のほうからきちんと隙間なく,さらに塩を均一に振り掛け重ねて生きます.重石をしないので,ふたは空気が入らぬようビニール等で密封します.甕を置くところは,比較的温度変化の少ない床下が良い。漬け込み、半年ほど自然発酵させると「山川漬」の出来上がりです。
 酸化によって黒茶色に変色した大根になり独特の香りが出てきます。
江戸時代には、都市住民がタクワン漬を作る場合は、干し大根を購入して加工していました。都市から少し離れた農村では、大根を干すことによって保存性が高くなり運搬が容易になる上、販売時期を選んで付加価値を高くして売れるという利点もあったからです。
 また、乾燥することにとって、大根自体が持つうま味成分が凝縮され、米糠、食塩で漬け込むことにより乳酸発酵が進み、独特のうま味が加わり美味しく食べられるようになります。
 現在でも、干しだいこんは全国各地で作られており、主に漬物の原材料として販売されています。
 生大根は、水分が90%以上あることから、そのまま漬け込むと貯蔵性が劣り、調味成分の浸透も悪くなることから、干してから漬け込んだ方がよいといわれています。アミノ酸の一種のプロリンは大根の乾燥度が増すほど増えます。東京タクワンには100g中5mg、渥美タクワンには20mg、鹿児島の干しタクワンには50mgですが山川漬には500mgにもなります。 
新つけもの考 前田安彦著 岩波新書
プロリンは、 皮膚などの組織を構成するコラーゲンの原料となるアミノ酸で、天然保湿成分(NMF) としても使われております。

伊勢たくわん
江戸時代末期に三重県の伊勢路を中心に農村で生産するようになりました。大きく発展したのは明治以後です。
 三重県の水利豊かな地で育った大根(御薗大根)が伊勢市付近にある漬物業者で漬けられています。師走に入り、伊勢平野が寒風に吹きさらされる頃、「伊勢たくあん」の大根干しが始まる。葉のついた大根がハザに掛けられズラリと並ぶのは師走の伊勢路ならではの光景である。10日から14日前後、干して大根が”の”の字になるように曲がるまで干すと、米ぬかや塩、乾燥したカキの皮、唐辛子などと一緒に漬け込む。昔風の造り方で造られた、しわが多くてパリパリとした歯ごたえの沢庵-。伊勢タクワンは伝統の味です。主に大阪や京都方面に出荷されていました。

伊勢タクワンの危機
昭和18年 読売新聞より
年産25万樽(1樽70kg入り)も生産されている・三重県の伊勢タクワンの糠不足の悩み。戦争で、伊勢タクワンの糠が不足しタクワンの生産がなくなるか心配したが、このたび陸軍糧秣廠が研究したワラと籾殻で漬け込み、新製法を試みたところ、味も香気も遜色ないことが実証され、名物伊勢タクワンは今後この方法でどしどしと生産できるようになった。

戦後、物不足の時、練馬のタクワンも同じ籾殻とワラでタクワンを作っていた。

阿波たくわん
徳島県のタクワンは阿波タクワンと呼ばれ、大正から昭和初期にかけて、全国一の生産量を誇った大根の漬物です。

 明治中期、化学染料の登場で衰退し始めた藍にかわり吉野川下流域の畑作地で漬物用の大根が作られるようになります。大正時代の徳島市民の食生活は麦飯にタクワンが主流でした。徳島県は米が幕府時代から不足していたためです。大根を天日に干して10日ほどつけ込んだタクワンは阪神市場に出荷され、その品質の良さからやがて全国へ広まりました。昭和の始めには、東京市場にも鉄道輸送で入ってきました。
 大正12年にはおよそ28万樽(1樽70kg)が徳島で作られ、全国のタクワン生産高の2割を占めていました。台湾や朝鮮にも輸出されていました。昭和20年代まで徳島は全国一のタクワン産地だったのです。
 阿波晩生。
この大根が阿波たくあんの人気を支えました。たくあん用に品種改良された大根です。昭和の始めに県の農業試験場で生まれた阿波晩生は当時、「たくあんに最適の大根」として高い評価を受けました。品種改良の成功で阿波たくあんの人気はゆるぎないものになったかに思われました。しかし、阿波晩生には重大な弱点があったのです。
昭和25年、大根のウイルス病が発生し阿波晩生に大きな被害がでました。
阿波たくあんの生産量はこの年、激減。漬物業界は大打撃を受けます。あわてて県は品種改良に取り組みました。県は病気に強い新しい品種「阿波新晩生」を作り挽回をはかりました。しかし、出荷の減った時期に他の産地に市場を奪われたことなどが原因で阿波たくあんが再び全国一の座につくことはありませんでした。このあと徳島のタクワン作りは衰退の一途をたどります。現在、徳島でタクワンを出荷している漬物業者は数少なくなりました。消費者が浅漬けを好むようになったこともタクワン離れに拍車をかけました。徳島県の漬物業界は冬は野沢菜の産地となっています。数少ない国産漬物原料の産地です。
 明治から昭和初期にかけて全国の人々が支持した「阿波たくあん」の名声は時代や食生活の変化とともに忘れ去られようとしています。
ねじり干し大根
タクワンの漬け込みのとき,樽に入りきれなくて.ハザに春まで掛け干して置いてシワだらけになり,固く茶色になった大根をはりはり漬、味噌漬,五分漬にして食べていました。
昭和40年代でしたか、阿波タクワンを見ました。もちろん4斗樽です。中身と樽の重量を入れると80kgを超えます。もちろん自分の体重より重く、運ぶのに難儀しました。更に、あまり傾けて運ぶと樽のふた(かがみ蓋という)と樽との隙間から、タクワンの漬け汁が漏れてきます。もちろん、着色料使用しているので、うっかり黄色い汁をシャツに付けると大変です。運ぶコツは手前に傾けないで、前倒しにして、汁をこぼし、ひざを利用して,テコの原理で持ち上げます。関東の大根よりかなり太かった記憶があります。まるで黄色い大根足が漬かっていたみたいでした。
 阿波タクワンの着色の色は赤黄色で関西では赤フスマと呼んでいた。関東タクワンの黄色はクリーム色に近く、阿波タクワンはオレンジ色に近い。タクワンの黄色といっても日本全国同一の色ではない。

こんこ
徳島県のタクワンは阿波タクワンですが“こんこ”とも呼ばれています。
こんこの造り方(地域・気温により変わります)
大根をハザに掛けて、干し。“の”字の形に大根が曲がるまで干します。塩2升糠3升を混ぜあわせ,樽のそこに ぬか塩をしき、葉を落とした大根をつめ、ぬか塩を振るという作業を交互に繰り返し、最後に乾燥した大根葉をふたにしてきちっと詰め、塩をいっぱい振り、重石を掛ける。

渥美たくわん
昭和40年代に全国一の生産量を誇った愛知県の「渥美沢庵」は、当時4斗樽に(70kg)で60万から70万タル生産され、日本の漬物業界を席巻した。
 愛知県の渥美半島で生産されていた最高級の「一丁漬」は人気も抜群で、漬物専門店をはじめ、高級料亭、寿司屋向けに良く売れたものである。現在ではその高級沢庵の一丁漬などの渥美沢庵を生産するメーカーもわずか2社程度となってしまった。かつては40社余りあった事を考えると、時代の移り変わりに愕然とする思いである。
 一丁漬は幻の渥美沢庵といっても過言ではない。手間暇かけて漬け込み、乳酸発酵した半年後にようやく製品になって販売される。 
 干し大根原料は前年12月初め頃から漬け込みが始まる。一丁漬の下漬は昔からの方法で、米ぬか、塩、茄子の葉、柿の皮、唐辛子を入れて漬ける。この他、ウコン(黄色く着色する)を混ぜた物も注文で生産している。
 現在、干燥は2週間。生大根を干すと歩留まりは27~28%になる。大根の品種は「漬け誉」を使用しており、大根の長さも揃うので、昔の阿波晩生と違い生産性も良い。製品も今日では消費者の低塩嗜好にマッチさせ塩分は4~4.5%、風味もよくミネラル分豊富なヘルシー漬物に仕上げている。
 大根の干し場は、潮風が吹く最高の場所として昔から知られる田原市・伊川津から江比間海岸に面した地区でハザ掛けしている。なお、漬け込みは1月いっぱいで終了する。
渥美沢庵の歴史
 昭和30年代から沢庵の生産が本格化し、伊勢沢庵につぐ干燥大根の加工産地となり、渥美沢庵ブランドが全国に広まった。生産された沢庵はふすま漬沢庵、昆布沢庵、うめず沢庵、一丁漬沢庵など。タル詰の時代から包装沢庵の時代に移った。昭和50年頃になり、九州本干沢庵が全盛を迎え、それと同時に渥美沢庵が急速に落ち込み廃業が続出した。
 大根産地だった渥美半島は、収入の良いキャベツ、白菜、メロン、電照菊などに転作していったことも産地崩壊につながった。
 また原料大根も九州の干燥大根原料の3倍の価格でも農家は作らなくなった。その理由は競合作物の方が割が良いことが一番の原因である。また近隣にトヨタ自動車工場が出来たことも大いに影響がある。

練馬漬物親睦会
毎年1月終り頃の週に池袋西武百貨店で漬物の物産展がある。会場:西武食品館地下1階(南B11)=特設会場
 今の練馬区では消えてしまった練馬大根を特別栽培し、昔ながらの作り方で数千本販売します。会期:1月26日(水)~2月1日(火)
 練馬区は都市農業を支援していて、練馬大根で町おこしを企画しているようです。昔は練馬というとかなり辺鄙な印象がありましたが地価の安さに芸術家が引き寄せられ、今ではマンガの聖地となったようです。毎年開催されていますが本物の練馬大根で造った沢庵漬は幻の商品となりました。
 市販の沢庵漬は製造方法が簡略化されて作っている。

番外 魚のヌカズケ
福井県若狭地方の伝統食に「へしこ」という名の食べ物がある。へしことは魚の糠漬けのことで、その語源は、重石をかけて漬け込む「圧し込む(へしこむ)」という言葉がなまったからといわれている。
 北陸地方ではその昔、魚の腐敗を防ぎ、長期保存するための糠を使った保存食として作られていた。その歴史は長く、江戸時代の中ごろにはすでにへしこ作りが始まっていたといわれている。最も有名で生産量も多いのが鯖のへしこである。糠が江戸時代以前からあるにも関わらず、江戸時代中頃以後の歴史となるのは米糠の歴史が関わって来る。つまり米糠が保存食に利用されるようになってきたのは江戸時代中期以後の話となる。
 沢庵漬も沢庵禅師の創作ではないが沢庵が活躍していた時代に普及した。米糠が比較的早くから手に入った地域で活躍していたからと思われる。戦国時代は米はモミの形で流通していたようで食する寸前に精米し、その時発生する米糠も汁の増量剤として食べていたようである。またおいしくない米糠は主に肥料として使われていたようである。応仁の乱の前後に、日本に台カンナという道具が大陸から渡来した。この道具によって、大きな樽が製造する事ができた。この事が酒造の発展を招き、精米が増え、米糠の発生が増えた。ウルチ米の系統の米糠は漬物に適していて、様々な糠を利用した漬物が江戸時代に現れたのはこの様な歴史の背景がある。
 またモチ米由来の糠は漬物に適さなかったこともある。この考えからみると戦国時代以前には日本で栽培されている米が厳密にウルチ米と餅米とが分けて栽培されていなかったと思われる。この種の文献はまだない。
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