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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

不忍池の中にある弁天堂後ろ

2013年08月17日 | 福神漬
不忍池の中にある弁天堂後ろ
江戸末期に人情本作家の松亭金水は弁天堂の後ろに住んでいた。そこにたむろしていた戯作者関連の人達が集まっていた。このときの様子が梅亭金鵞『妙竹林話七偏人』の中にある。
 明治の20年代に梅亭金鵞の弟子ともいえる鶯亭金升が新婚生活を始めた池之端の借家が金水の旧居付近だった。池之端御前といわれた福地源一郎(桜痴)が借家の持ち主だった。自由民権運動の福島事件では福島自由党と対決した会津帝政党は福地源一郎の政党であった。鶯亭金升の叔父が福島事件被告人(東京士族)花香恭次郎だった。鶯亭が投書していた團團珍聞は風刺を売り物としていた雑誌なので、落ち目になっていたとはいえ政府よりの福地のところに鶯亭金升なぜ住んでいたか不可解である。
 福地源一郎は長崎で森山栄之助(多吉郎)から英語を習っていた。森山はペリーが浦賀に初来航したときは長崎にいて、米国国書の受領の場にはいなかったが浦賀奉行戸田氏栄とは通詞として浦賀に詰めていた時もあり知っていた。
 明治になって森山は高島嘉右衛門のところで一時通訳として働いていたようだが明治4年に死去した。残された森山の子孫の面倒を見たのが福地であったという。大垣戸田藩が戊辰戦争の軍資金が枯渇し、軍資金を横浜の外国人から借りる事となり、高島嘉右衛門の下で通訳として働いていた森山の力があったという。明治の4年から5年頃花香恭次郎は横浜にいた。また鶯亭金升の父長井昌言(明治6年死去)は工部省鉄道局に関係していた。多分就職には高島の力添えがあったと思われる。高島嘉右衛門の姉は大垣藩戸田氏正の側室で戸田欽堂を産んでいる。長井昌言は戸田伊豆守氏栄の3男である。
コメント (1)
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