樽
戦後、樽を使っていた食品(醤油、酒等)がプラスチックの容器に変わると、桶樽の職人は仕事を変えねばなりませんでした。一部の高齢の樽職人は高度成長経済の中で人手不足の漬物業界で樽の修理をしつつ、生活していました。重石をのせるため、漬物に向く強度のあるプラスチックの漬物用の樽はすぐには出来ませんでした。生産量が少なく、価格が高かったためです。
漬物と樽の歴史
普通、杉材の板を合わせて竹のタガ(輪)で締めたもので、正式名称を「結樽(ゆいだる)」といいます。15~16世紀に急速に普及した結桶・結樽は、その優れた特性から、産業や生活のさまざまな分野に取り入れられていきます。特に、醸造業や液体の輸送業(酒・醤油等)の分野でその有効性が発揮され、江戸時代の諸産業の発展の基盤を担っていました。また日本の食文化の独自性をもたらしました。樽は繰り返し何度も使え、資源を大切にするリサイクル容器だったわけで、不要になればバラすのも簡単で便利でした。使用後の空き樽も回収され流通していました。また、樽は適当に壊れ、樽製造の需用が創出され、スギの林業経営が成り立ちました。
結樽の歴史
杉は日本固有の樹種で、かつては生活に欠かせないものだった。建築から暮らしの道具まで、あらゆるものに使われてきた。16世紀前後にスギの割り板を丸く並べ、竹の細くしたタガで結った円筒を作り、竹の合い釘で継ぎあわせた底板をはめ,桶(結桶)という軽くて丈夫で、液漏れのない液体を入れる容器で作られた。日本のスギと竹で出来た結桶は酒や醤油等の高価な商品を製造したり、輸送したりするため、漏れてはいけなかった。更に野菜等の肥料の輸送に使われた下肥用の桶は軽くて、かつ漏れてはいけなかった。桶の発達は近世日本の発展に対して役割は大きい。つまり,都市の衛生の維持、農業の発展、醸造業の企業化、林業に対する貢献等がある。
奈良県吉野のスギの樽丸(樽の側板用の用材)に適し、山でよく干し軽くして泉州堺へ運んだ。杉の樽丸を得たところに醸造業は発展した。杉の植林の歴史は古く、室町時代中期に大和三輪と春日山の杉を移植して始まり。枝打ち・間伐などの手入れがゆきとどいた節のない良材は、江戸時代には上方からの酒樽用材の需要も多かった。堺は摂泉12郷といわれた酒造の地であり、醤油の醸造では江戸時代有数の産地であった。醸造業の企業化、大型化は、輸送用の樽(4斗樽)製造用の桶、特に大型の桶の発達が大きい。更に、桶、樽の製造業の発達は、従来、酒等の容器であった壷やカメは醸造するため容器から、茶道の普及によって茶器や日用の雑器、食器の製造に向かった。
酒及び醤油の空いた結樽は漬物用の容器として使われた。沢庵の製造に使われた樽は酒樽の発達の後である。
スギ花粉症で嫌われている杉は日本でどのような歴史があったのだろうか。
スギは今から200万年前には日本に出現し、縄文・弥生時代には既に全国に広く分布。登呂遺跡の古い時代から、スギのお世話となり、大切に植林・管理・保護・活用してきた。 スギは日本固有の植物で、北海道以外、全国で見ることができる。優秀な材木として日常生活に大いに役立つだけではなく、世界に誇れる日本独自の歴史的な文化財とも言える。
杉のきた道 遠山道太郎著より
古代における大和平野付近の度重なる都京の移転の原動力の一つとして建築用の木材が容易であったことが挙げられる。平安京が永続したのは西北部の広い森林地域からの木材供給が保津川流送によって、ある程度円滑に続いたからと思われる。
しかし、12世紀、東大寺の再建の用材が山口県の山中で調達したことは近畿周辺の山林の荒廃がかなり進んだと思われる。そして、17世紀になると、平和の定着と工具の進歩によって、近世の建築ブームが全国的に広まった。
日本が独自の木の文化を誇ってきたというなら、それは「杉の文化」であったらというべきだろう。スギは日本人の始まりの時には存在し,登呂遺跡に出土しているくらい、日本人の生活に貢献し、少々の伐採利用には耐え,後には植栽である程度の資源存続出来るような特性をスギは持っていた。スギは樹木から木材へ、木材から棒、板に変わり、板をつなぐ技術を開発したことが大きい。小さくし、薄く割ったコケラ板を規則正しく重ねて広げていくだけで、大きな面積の屋根が出来る。適当な大きさ厚さに割って円筒形に並べ、竹のタガによって締めて、桶樽はできる。軽くて丈夫な液体容器の容れ物である。日本の箱舟,高瀬舟(平田舟)はスギ板を釘でつなぐことで成り立った。
日本の川は雨の多い国であるが流量の差も変動も大きい。このような川を利用するには底の浅い舟でなければ役に立たない。その高瀬舟(平田舟)によって河川輸送が発達し、下肥等の肥料が運ばれると農村の開発も進んだ。もし、杉の木の樽が江戸時代に発達しなかったならば、中国、朝鮮の壷・甕の食文化になっていて、今とはかなり変わった日本の食文化になっていただろ。重石を掛ける沢庵漬は杉の樽がなければ存在しなかったといえる。
結桶(結桶に蓋をつけたのが結樽)の歴史
日本では11世紀後半の北部九州地域に発掘調査で井戸枠として作られた底のない結桶が出土してます。13世紀後半から14世紀になると瀬戸内以東の地域でも少しずつ出土例が確認できるようになります。絵巻物などの絵画資料や文献資料でも13世紀末から14世紀初頭にかけての時期から結桶の存在が確認できるようになります。15世紀から16世紀にかけての時期になると各地で結桶の出土が目立つようになります。結桶はゆっくりと各地に広がりました。
15世紀以降結桶(結樽)が急速に普及してくる原因として結桶(結樽)製作技術の革新があったことが思われます。草戸千軒町遺跡で14世紀代に井戸枠として作られた桶の側板の側面に (やりがんな)と呼ばれる工具の痕跡が確認できます。やりがんな というのは、日本に古くからある大工道具で荒削りです。しかし15世紀の井戸材を観察すると、台鉋のような工具で一気に加工されていることが確認できます。台鉋は、製材用の縦挽鋸である大鋸などとともに室町時代に中国から渡来して日本に定着したといわれる工具ですが、 やりがんな に比べて正確で効率的な加工が可能になったと考えられます。隙間の出来ない木材加工が出来るようになりました。杉の木材の特性を生かした樽が誕生しました。壷や甕より軽く液体の漏れない容器が樽です。
桶と樽 脇役の日本史 小泉和子/編より
中世において、日記等の資料によると果物・野菜等の贈答には曲物や結物に、酒などの液体は錫製の瓶子や陶製の壷にと容器が使い分けされていた。容器の機能を見ると運搬用と生産貯蔵用とに分けられる。結物は早くから運搬容器として利用されている。壷・甕が酒の醸造・貯蔵容器として地位を占めていた。
室町時代、酒造業が発展し、幕府は酒税(酒壷銭)を掛け始まった。酒壷一つを単位としていた。その課税状況は、壷の大小を問わず、醸造中であれ空き壷であれすべて課税されていた。当時の脱税手段として、壷の検査に際し人に預けたり,売ったり、他人に譲ると約束したり、人の預かり物と偽って言い逃れすることを禁じている。酒の小売屋・味噌屋は課税されないが土倉を構えて多くの壷を所持するものは課税の対象となっていた。醸造業を営むものは多くの壷を所有していたが、空き壷の数が醸造中の壷の数を上回ることが多く、すべての壷が活用されてはいなかった。
樽は解体保存できることから,樽による酒つくりが非醸造期間中は節税手段として有効であったかもしれない。醸造用の壷・甕から10石から20石入りの木樽できるようになると、急速に樽に変わった。壷の大小に変わらず課税されていたので大型化し、かつ醸造技術の進歩によって少量生産によるリスク分散を図る必要性が減ったと思われる。近世初期の上方において、四斗樽が出現することによって酒を江戸に運ぶことが可能となり、輸送業が発達した。四斗樽は吉野杉が尊重され、杉の木香が酒に移り、芳醇な清酒なった。このため摂泉12郷の酒造の発展は吉野林業の発展をもたらした。と同時に日本の木材加工技術を発展させた。沢庵漬の容器の樽は酒の輸送に使われた空き樽の再利用である。
結樽が室町時代に急速に発達した原因について
桶と樽 脇役の日本史 小泉和子/編より推理すれば
室町幕府が京都にあり、米の集荷が順調なときは、米と同様な扱いをされている酒つくりが盛んになった。さらに、室町幕府は経済基盤が弱く、貨幣経済の進展とともに麹座・酒座等からの上納金に頼らざるをえなかった。酒屋に対し初めての酒壷賎(酒税)が課され、不当な上納金は税金とも云えて、節税、脱税のため、結樽が輸送容器から、醸造容器に向かったと思われる。不法な手段は証拠隠しのため文献に残らない。従って。権力者によって作られた法律を裏読みするしかない。食品の歴史の中で、意図して作ったものと偶然の工夫により出来たもの,天災等や事件・宗教・法律によってやむを得ず、生きるため,糧飯のように工夫されたものが多い。従って、食品が豊富になったり、嗜好が変わったりして消滅した食品も多い。よく引用される930年に刊行された「延喜式」には当時までの野菜漬物の詳細な製造方法がいくつか記載されているが消えた漬物も多く、推測するしかない。
信長・秀吉時代は、まだ結樽の製作技術が発展途上の状態で、かつ結樽を使い醸造する技術は未完成のため、備前甕は大型化し、より高品質のものになったと思われる。しかし、江戸時代に大型の桶樽製造技術と寒仕込み等の醸造技術の安定によって大型の醸造用の備前甕は消えた
樽と司馬遼太郎氏の考え
樽と鉋(かんな)
紹興酒の醸造・・日本酒の場合のように樽や桶をつかうことをしないですべて、硬質の陶器・磁器であった。
中国には、馬桶(まーとん)」という樽のようなおまるを室内に置き、そこで用をたす桶がふるくからあるが、日本のように巨大な桶・樽はない・江戸期の経済に大きな活力をあたえた大型桶・樽が日本酒の歴史にも重要なかかわりをもつのだが、ただ桶・樽の製造を可能にしたのは、鉋の出現である。
上代以来、材木を手斧(ちょうな)や槍鉋(やりかんな)といわれるもので面を平らかにした。鉋(台鉋)が出現してはじめて面を鏡のようにすることができ、かつ幾何学的な細工をも可能にしたのである。台鉋は、室町時代に中国から伝来したといわれる。
江戸初期は、桶・樽の職人は鉋なしに一寸のしごともできなかった。紹興の酒造工場の構内を歩いていて、酒そのものよりも、酒を醸したり貯蔵したりする容器のほうに中国と日本の文化のちがいをかんじたり、さらには文化というものの交流がとほうもなく玄妙な働きをすることにおかしみを感じた。
(「街道をゆく―中国・江南のみち」全集58)
韓国ドラマ チャングムの誓いより
16世紀初頭の朝鮮王朝時代を舞台に、実在の医女チャングム(長今)をモデルにして描かれた韓国の時代劇。料理の時に甕・壷しか出てきません。今韓国に行くと、昔より随分減りましたがキムチを漬けたカメが屋上等の日陰にあるのが見えます。日本では常滑焼の陶器がヌカ味噌漬けの容器として売られているくらいです。
中国・朝鮮は甕・壷の食文化で日本はスギの木の樽の食文化と言ってよい。