明治の憲法発布したころまで(明治23年)下谷根岸の気風は独特のものがあった。反明治政府系と反文明開化、親江戸文化の人たちが集まっていた。その中でのちに近代数奇者茶人として名をあげた、増田克徳がいた。彼の根岸において催された初期の茶会は今の茶道の茶会とは異なるものであった。所作や茶道具に拘ることもなかったようだ。茶会の後の余興は下谷の人たちが好む芸事であったようだ。今では邪道ともいえる下谷根岸の駄茶会は記録も残らず、語る人もいない。根岸の地縁から茶の世界へギヤマン、天平美術、仏教美術や古代中国工芸品などを自由に茶の世界に使った。明治初期の数奇者茶人は古い茶の常識がなかったようだ。ただ茶会の記録も少なく、言い伝えが残っているだけである。増田克徳の茶事後のおふざけは根岸党(饗庭篁村(あえばこうそん)森田思軒・須藤南翠・岡倉天心・幸田露伴)と同じようなことを行っていたようだ。幸田露伴の記録によると彼らは酒のつまみに『福神漬』の缶詰を食べていたようだ。
江戸幕府が崩壊後、茶事の師範は新しい庇護者が明治20年代に現われるまで苦難の時期であった。これは他の芸事も同様な苦境の時期でもあった。