東京たくわん 練馬大根
明治10年 第一回内国産業博覧会
明治維新直後、江戸は東京と変わったが人口は減り、茶桑栽培が都心で奨励され寂れていった、
特に上野戦争で荒れた寛永寺は明治6年上野公園に指名され整備されていった。
明治10年第一回内国勧業博覧会が上野公園で始まる。約3ヶ月間(一日平均2000名の見物客)
明治11年 明治天皇 上野公園の桜花観覧 文明開化のファッションを見るため見物人が集まった。
明治14年第2回内国勧業博覧会
明治15年博物館 上野動物園開業
上野寛永寺門前町から文明開化・欧化思想の先駆地となる。
内国勧業博覧会はさらに第3回(明治23年)は東京、第4回(明治28年)は京都、第5回(明治36年)は大阪で開催されました。
練馬区石神井図書館にある郷土資料館に明治10年(1877)に、明治政府が殖産興業政策の一環として開催した内国勧業博覧会に、上練馬村の相原房次が沢庵漬を出品した折に受けた褒状があります。
発行は「内務卿従三位大久保利通」である。第一回の博覧会で練馬大根沢庵漬が公に表彰されたことを示す資料である。
内国勧業博覧会は、産業や技芸の発展に主眼が置かれ、珍しいだけの動植物や鉱物、古いだけのものは排除され、後々に価値が出るもの、継続的に商売になるもの、技を極めたものを出品するように要求されました。一大イベントだったのです。明治11年には東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会の出品物を販売処分した勧工場(かんこうば)といわれる施設ができました。これは今のデパートの前身といわれ、上野広小路やべったら市の開かれる中央区大伝馬町界隈にもありました
明治時代の沢庵需要の増大によって農家製造は増大し沢庵工場化していた。その影響か次のような記事が現れてきた。
明治34年10月15日 朝日新聞記事より
東京府にては昨年12月発布、本年4月より実施の府令を以って、従来東京府郡部営業税、雑種税科目中工業(製造業、印刷業、写真業)年税営業収入高千分の六となりしを単に工業と改めるために、これまで農業の片手間に種々の工夫をなし製出せる農産物、たとえば沢庵漬のごとき人工を加えたる工業製作品の一なりと収入高の千分の六の年税を課せられることなりたるは、甚だしく酷なりと一昨日府下6郡の農会の代表者が会して協議会を開き,結局参事会の賛助を求むることに決し、昨日の参事会は右工業の解釈を狭義に解することに決議したりによって、本月(東京)府会の議に附するべしと言う。
参考
農会とは
1899年(明治32年)の農会法では、政府助成による農業・農民の保護育成のため行政区画毎に農会(後の農業協同組合)が設置され、中央農業団体としての大日本農会も出現して農業発展に尽力した
参事会とは
郡には議決機関として郡会と郡参事会が設けられ、郡参事会は郡長と府県知事が任命する郡参事会員により構成された。
大化の改新(645年)後に律令制度が制定され、地方は国、郡、里の単位に分けられて支配されます。その後、郡制度は衰退しますが、近代明治に入り、郡区町村編成法(明治11年)が公布され、古来よりある郡が行政単位として復活することになります。大正15年に郡制度は廃止され、現在は住所を表す意味しかありません。
練馬大根 練馬区教育委員会発行より
明治も20年代に入ると世情も落ち着き、東京の人口も増大し、練馬が再び大根の産地となった。維新のあとで奨励された茶、桑、藍の採算が取れなくなったためもある。東京に出来た工場の寮、学生の宿舎、軍隊の糧食の需要があらたに生じた。
明治30年3月刊の(日本園芸雑誌第80号)によると当時の沢庵漬・一反歩(10アール)の収支
支出の部 合計22円75銭
内訳 種子代 80銭・ 整地人夫代 60銭・播種及び施肥人夫代 45銭・ 肥料代 8円55銭・間引及び1番作人夫代 45銭・補肥及び2番作人夫代 30銭・収納人夫代 75銭・干燥人夫代 1円50銭・沢庵漬人夫代 60銭・塩及び糠代 5円・干し葉取人夫代 45銭・運送費 1円50銭・その他・樽代? 1円25銭・公費 60銭
収入の部 合計 26円
沢庵漬 24円 干し葉 2円
差し引き利益 3円25銭
収支をみると肥料代が収入の3割を占めている。各種人件費を加えると利益は少なかった。
この時代の沢庵漬の原価を分析すると、次のような対策が考えられる。
①大根栽培の中で肥料がコストの中で多いので削減する。化学肥料の導入
②塩及び糠代がかさむので、製造方法の革新。干し大根を漬け込むことから生大根を塩蔵し、仕上げに糠漬け(沢庵漬)にする。技術革新
③運送費・荷車から鉄道を利用し遠隔地に得意先を確保する。量的拡大政策
④品質を安定させるため、大根の品種、製造方法の確立によって、ブランドの確立。安定大量消費の軍隊・寄宿舎等の得意先の確保。
⑤自家製造の沢庵漬と明らかに品質の差が出る商品の製造。製品の差別化。
以上のような理由で練馬の農家の干し大根販売から野間稼ぎとしての沢庵製造が明治の半ば以後、沢庵工場化していく。
練馬大根碑 練馬区の愛染院にある記念碑。昭和15年東京練馬漬物組合員149名が大根碑の建立を計画し、これに賛助の有志の町会が加わり、亦六翁の菩提寺の愛染院に立てる事となった。組合員の持ちよった『たくわん石』を基壇にあてた。
練馬大根碑に碑文がある。
練馬大根碑 題字 東京府知事 川西実三
柴田 常恵撰
蔬菜は、人生一日も欠き難き必須の食品たり。特に大根は滋味芳醇にして、栄養に秀で、久しきに保ちて替る所なく、煮沸乾燥或いは生食して、各種の調理に適す。若し夫れ、沢庵漬に到りては、通歳尽くるを知らず、効用の甚大なる蔬菜の首位を占む。
今や声誉内外に高き我が練馬大根は、由来甚だしく、徳川将軍綱吉が舘林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、練馬の百姓亦六(今の鹿島姓の旧家)へ与えて栽培せしむるに起こると伝ふ。
文献散逸して拠るべきもの乏しと雖も、寛文中綱吉再次練馬に来遊せしは、史蹟に載せられ、当時の御殿跡なるも今に存するを思えば、伝説が基く所ありて、直ちに斥くべきにあらず、爾来、地味に適して、栽培に務めしより久しからずして、優秀な品種を作り、練馬大根の称を得て、重要物産となり、疾く寛政の頃には、宮重を凌ぎ日本一の推賞を蒙るに至れり。
抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当たり、豪族豊島景村来住せしより、文明中太田道灌の攻略に遭い亡ぶるまで、世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依り始めて広く著はる。而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し、加ふるに沢庵漬として、遥かに海外に輸出さるるより、競うて之が栽培を計り、傍近数里殊に盛たるものありと雖も、尚且つ足らざるを感ぜしむ。昭和7年10月東京市に編入の事あり、都市計画の進程に伴ひ、耕転の地籍徐に減退を告げ、其の栽培の中心は傍近の地に移るを余儀なきを覚えしむ。現時沢庵漬の年産8万樽に達せるは最高潮と称すべきか。茲に光栄輝く皇紀二千六百年に当たり、奉賛の赤誠を捧げて、崇高なる感激に浸ると共に、東京練馬漬物組合員一同相胥り、地を相して、各自圧石を供出して基壇に充て、其の旨を石に刻して、後昆に遺さんと欲す。偶々其の記を予に嘱せらるるも、不文敢て当らず。予は尾張の出にして、居を此の地に営み、大根の由来と稍々相似たるものあるは、多少の遠因なきにあらず、奇と云ふべきか、辞するに由なきより、乃ち筆を呵して、其の梗概を記す。
昭和15年11月
(練月山 亮通 書)
東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」
特別展『肥やしのチカラ』
「黄金列車」「しもごえ鉄道」っていうのは、いまの東武日光線と西武池袋線の糞尿輸送の列車が昔そう呼ばれていました。太平洋戦争の末期、日本の敗色が濃くなり、肥料のために糞尿を輸送することが困難になっていた。そこで東京都は西武鉄道と東武鉄道の協力を得て、糞尿の貨車輸送を計画した。また、河川を利用した輸送も江戸時代と同じようにありました。主に海洋投棄に使用されました。
西武鉄道
西武鉄道の前身である武蔵野鉄道と練馬農業との関係は深い。同鉄道の歴史は大正4年(1915)池袋-飯能間の開業にはじまるが、開業当時、沿線のほとんどは農村。輸送も練馬大根など沿線の農産物の輸送が中心で、人員輸送はごくわずかなものであった。
第二次大戦による 食料不足の時代を迎えると、江戸時代から有名な川越芋の産地を擁した西武鉄道は殺人的な混雑ぶりを誇るまでになったのである。糞尿輸送は、旅客輸送終了後の深夜から早朝にかけて行い、復路はタンク貨車で野菜を輸送した。
東武鉄道
東武鉄道も貨車を使って糞尿輸送を開始した。昭和19年都心方面から隅田川を遡上してきた下肥船から糞尿を千住駅で貨車に積み替えて武里駅・大沢駅・杉戸駅など埼玉方面に肥料として運ぶ糞尿輸送を開始しました。
愛知県では名古屋鉄道が名古屋市、愛知県に頼まれて、食糧増産のためにということで近隣市町村へ糞尿列車を走らせた。
「清戸道(きよとみち)」またの名を「おわい街道」(下肥のこと)が、練馬から江戸に通じる道だった。農家は朝の3時頃には、練馬大根を大八車に乗せて町へ出発。市場で大根を出荷したあと、町内をまわって下肥を運んだ。大八車に肥桶(こえおけ)を積んだ。また,戦後・甲州街道の新宿も同様な肥桶を積んだ車で混雑していて、進駐軍の軍人は(ハニーカー又はハニー・バスケット・パレード)と呼んで侮蔑した。
世間がふたたび下肥という有機肥料の良さに気づくのは1990年代になってからになる。
※清戸道:いまの江戸橋、目白坂、目白駅通り、二又、円光院前、道楽橋、宮田橋、谷原交差点、大泉小、中島橋、四面塔稲荷へと続いていた道。
肥料を運んだ鉄道輸送はまた大根や沢庵漬を消費地に運ぶ手段となりました。そして、ほとんど同時に地方から東京へ野菜や沢庵漬を運ぶ鉄道輸送路ともなりました。
明治10年 第一回内国産業博覧会
明治維新直後、江戸は東京と変わったが人口は減り、茶桑栽培が都心で奨励され寂れていった、
特に上野戦争で荒れた寛永寺は明治6年上野公園に指名され整備されていった。
明治10年第一回内国勧業博覧会が上野公園で始まる。約3ヶ月間(一日平均2000名の見物客)
明治11年 明治天皇 上野公園の桜花観覧 文明開化のファッションを見るため見物人が集まった。
明治14年第2回内国勧業博覧会
明治15年博物館 上野動物園開業
上野寛永寺門前町から文明開化・欧化思想の先駆地となる。
内国勧業博覧会はさらに第3回(明治23年)は東京、第4回(明治28年)は京都、第5回(明治36年)は大阪で開催されました。
練馬区石神井図書館にある郷土資料館に明治10年(1877)に、明治政府が殖産興業政策の一環として開催した内国勧業博覧会に、上練馬村の相原房次が沢庵漬を出品した折に受けた褒状があります。
発行は「内務卿従三位大久保利通」である。第一回の博覧会で練馬大根沢庵漬が公に表彰されたことを示す資料である。
内国勧業博覧会は、産業や技芸の発展に主眼が置かれ、珍しいだけの動植物や鉱物、古いだけのものは排除され、後々に価値が出るもの、継続的に商売になるもの、技を極めたものを出品するように要求されました。一大イベントだったのです。明治11年には東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会の出品物を販売処分した勧工場(かんこうば)といわれる施設ができました。これは今のデパートの前身といわれ、上野広小路やべったら市の開かれる中央区大伝馬町界隈にもありました
明治時代の沢庵需要の増大によって農家製造は増大し沢庵工場化していた。その影響か次のような記事が現れてきた。
明治34年10月15日 朝日新聞記事より
東京府にては昨年12月発布、本年4月より実施の府令を以って、従来東京府郡部営業税、雑種税科目中工業(製造業、印刷業、写真業)年税営業収入高千分の六となりしを単に工業と改めるために、これまで農業の片手間に種々の工夫をなし製出せる農産物、たとえば沢庵漬のごとき人工を加えたる工業製作品の一なりと収入高の千分の六の年税を課せられることなりたるは、甚だしく酷なりと一昨日府下6郡の農会の代表者が会して協議会を開き,結局参事会の賛助を求むることに決し、昨日の参事会は右工業の解釈を狭義に解することに決議したりによって、本月(東京)府会の議に附するべしと言う。
参考
農会とは
1899年(明治32年)の農会法では、政府助成による農業・農民の保護育成のため行政区画毎に農会(後の農業協同組合)が設置され、中央農業団体としての大日本農会も出現して農業発展に尽力した
参事会とは
郡には議決機関として郡会と郡参事会が設けられ、郡参事会は郡長と府県知事が任命する郡参事会員により構成された。
大化の改新(645年)後に律令制度が制定され、地方は国、郡、里の単位に分けられて支配されます。その後、郡制度は衰退しますが、近代明治に入り、郡区町村編成法(明治11年)が公布され、古来よりある郡が行政単位として復活することになります。大正15年に郡制度は廃止され、現在は住所を表す意味しかありません。
練馬大根 練馬区教育委員会発行より
明治も20年代に入ると世情も落ち着き、東京の人口も増大し、練馬が再び大根の産地となった。維新のあとで奨励された茶、桑、藍の採算が取れなくなったためもある。東京に出来た工場の寮、学生の宿舎、軍隊の糧食の需要があらたに生じた。
明治30年3月刊の(日本園芸雑誌第80号)によると当時の沢庵漬・一反歩(10アール)の収支
支出の部 合計22円75銭
内訳 種子代 80銭・ 整地人夫代 60銭・播種及び施肥人夫代 45銭・ 肥料代 8円55銭・間引及び1番作人夫代 45銭・補肥及び2番作人夫代 30銭・収納人夫代 75銭・干燥人夫代 1円50銭・沢庵漬人夫代 60銭・塩及び糠代 5円・干し葉取人夫代 45銭・運送費 1円50銭・その他・樽代? 1円25銭・公費 60銭
収入の部 合計 26円
沢庵漬 24円 干し葉 2円
差し引き利益 3円25銭
収支をみると肥料代が収入の3割を占めている。各種人件費を加えると利益は少なかった。
この時代の沢庵漬の原価を分析すると、次のような対策が考えられる。
①大根栽培の中で肥料がコストの中で多いので削減する。化学肥料の導入
②塩及び糠代がかさむので、製造方法の革新。干し大根を漬け込むことから生大根を塩蔵し、仕上げに糠漬け(沢庵漬)にする。技術革新
③運送費・荷車から鉄道を利用し遠隔地に得意先を確保する。量的拡大政策
④品質を安定させるため、大根の品種、製造方法の確立によって、ブランドの確立。安定大量消費の軍隊・寄宿舎等の得意先の確保。
⑤自家製造の沢庵漬と明らかに品質の差が出る商品の製造。製品の差別化。
以上のような理由で練馬の農家の干し大根販売から野間稼ぎとしての沢庵製造が明治の半ば以後、沢庵工場化していく。
練馬大根碑 練馬区の愛染院にある記念碑。昭和15年東京練馬漬物組合員149名が大根碑の建立を計画し、これに賛助の有志の町会が加わり、亦六翁の菩提寺の愛染院に立てる事となった。組合員の持ちよった『たくわん石』を基壇にあてた。
練馬大根碑に碑文がある。
練馬大根碑 題字 東京府知事 川西実三
柴田 常恵撰
蔬菜は、人生一日も欠き難き必須の食品たり。特に大根は滋味芳醇にして、栄養に秀で、久しきに保ちて替る所なく、煮沸乾燥或いは生食して、各種の調理に適す。若し夫れ、沢庵漬に到りては、通歳尽くるを知らず、効用の甚大なる蔬菜の首位を占む。
今や声誉内外に高き我が練馬大根は、由来甚だしく、徳川将軍綱吉が舘林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、練馬の百姓亦六(今の鹿島姓の旧家)へ与えて栽培せしむるに起こると伝ふ。
文献散逸して拠るべきもの乏しと雖も、寛文中綱吉再次練馬に来遊せしは、史蹟に載せられ、当時の御殿跡なるも今に存するを思えば、伝説が基く所ありて、直ちに斥くべきにあらず、爾来、地味に適して、栽培に務めしより久しからずして、優秀な品種を作り、練馬大根の称を得て、重要物産となり、疾く寛政の頃には、宮重を凌ぎ日本一の推賞を蒙るに至れり。
抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当たり、豪族豊島景村来住せしより、文明中太田道灌の攻略に遭い亡ぶるまで、世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依り始めて広く著はる。而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し、加ふるに沢庵漬として、遥かに海外に輸出さるるより、競うて之が栽培を計り、傍近数里殊に盛たるものありと雖も、尚且つ足らざるを感ぜしむ。昭和7年10月東京市に編入の事あり、都市計画の進程に伴ひ、耕転の地籍徐に減退を告げ、其の栽培の中心は傍近の地に移るを余儀なきを覚えしむ。現時沢庵漬の年産8万樽に達せるは最高潮と称すべきか。茲に光栄輝く皇紀二千六百年に当たり、奉賛の赤誠を捧げて、崇高なる感激に浸ると共に、東京練馬漬物組合員一同相胥り、地を相して、各自圧石を供出して基壇に充て、其の旨を石に刻して、後昆に遺さんと欲す。偶々其の記を予に嘱せらるるも、不文敢て当らず。予は尾張の出にして、居を此の地に営み、大根の由来と稍々相似たるものあるは、多少の遠因なきにあらず、奇と云ふべきか、辞するに由なきより、乃ち筆を呵して、其の梗概を記す。
昭和15年11月
(練月山 亮通 書)
東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」
特別展『肥やしのチカラ』
「黄金列車」「しもごえ鉄道」っていうのは、いまの東武日光線と西武池袋線の糞尿輸送の列車が昔そう呼ばれていました。太平洋戦争の末期、日本の敗色が濃くなり、肥料のために糞尿を輸送することが困難になっていた。そこで東京都は西武鉄道と東武鉄道の協力を得て、糞尿の貨車輸送を計画した。また、河川を利用した輸送も江戸時代と同じようにありました。主に海洋投棄に使用されました。
西武鉄道
西武鉄道の前身である武蔵野鉄道と練馬農業との関係は深い。同鉄道の歴史は大正4年(1915)池袋-飯能間の開業にはじまるが、開業当時、沿線のほとんどは農村。輸送も練馬大根など沿線の農産物の輸送が中心で、人員輸送はごくわずかなものであった。
第二次大戦による 食料不足の時代を迎えると、江戸時代から有名な川越芋の産地を擁した西武鉄道は殺人的な混雑ぶりを誇るまでになったのである。糞尿輸送は、旅客輸送終了後の深夜から早朝にかけて行い、復路はタンク貨車で野菜を輸送した。
東武鉄道
東武鉄道も貨車を使って糞尿輸送を開始した。昭和19年都心方面から隅田川を遡上してきた下肥船から糞尿を千住駅で貨車に積み替えて武里駅・大沢駅・杉戸駅など埼玉方面に肥料として運ぶ糞尿輸送を開始しました。
愛知県では名古屋鉄道が名古屋市、愛知県に頼まれて、食糧増産のためにということで近隣市町村へ糞尿列車を走らせた。
「清戸道(きよとみち)」またの名を「おわい街道」(下肥のこと)が、練馬から江戸に通じる道だった。農家は朝の3時頃には、練馬大根を大八車に乗せて町へ出発。市場で大根を出荷したあと、町内をまわって下肥を運んだ。大八車に肥桶(こえおけ)を積んだ。また,戦後・甲州街道の新宿も同様な肥桶を積んだ車で混雑していて、進駐軍の軍人は(ハニーカー又はハニー・バスケット・パレード)と呼んで侮蔑した。
世間がふたたび下肥という有機肥料の良さに気づくのは1990年代になってからになる。
※清戸道:いまの江戸橋、目白坂、目白駅通り、二又、円光院前、道楽橋、宮田橋、谷原交差点、大泉小、中島橋、四面塔稲荷へと続いていた道。
肥料を運んだ鉄道輸送はまた大根や沢庵漬を消費地に運ぶ手段となりました。そして、ほとんど同時に地方から東京へ野菜や沢庵漬を運ぶ鉄道輸送路ともなりました。