沢庵漬が黄色のは
沢庵漬が黄色くなるのは大根を塩漬けにすると自然に変化し黄色くなるものである。人為的に着色した理由はあまり知られていなくて、添加物を使用することを批判するする人から儲かるために黄色くしたとあるが『なぜ黄色くしたほうが儲かるか』が知られていない。着色したのが明治20年代から30年代の頃だろうか中野の沢庵業者が陸軍納めの沢庵を着色したことに始まる。なぜ陸軍納めの沢庵から着色が始まったか調べることにする。当時は軍隊とか寄宿舎だけで沢庵漬が自家製造でなく購入していた。色鮮やかな沢庵漬は粗末な食事に変化を与えただろう。同様にシソ梅酢で赤く着色した梅干も江戸時代からあった。
2007年10月29日 日本経済新聞朝刊より
朝刊のコラム「春秋」で「明治の半ばで、大勢の人間が白い飯を食べている場所は軍隊ぐらいであった。」と書いてあった。やっと探していた記事で沢庵漬が黄色くなった原因の根拠が文献によって確かめることが出来そうだ。
明治初期の徴兵制はかなりの人達が徴兵忌避出来て、例えば長男は行かなくてよいなどあって、何か軍隊に魅力的なものが必要であった。白いご飯が食べられるのが軍隊であって、軍隊で脚気がはやったのも頷ける。
森鴎外が日本兵食論を書いた事情も研究されていることと異なる事情があるように見える。結局日本人には欧米人と異なる風土に生きているので肉食を中心とした食事にすることは出来なかったのだろう。
明治時代、ドイツから輸入されたタール系色素は石炭を原料とする着色料で、安価なうえ、着色力も強いところから、食品加工に盛んに使用されていました。しかし、このタール系色素を含んだ食品を長期間摂取すると肝臓、腎臓障害を起すという毒性があるため、欧米では徐々に使用を規制し、米国で現在使用が認められているのはほんの少しだけです。日本でもかってタクワンやバターを黄色く色付けするのに使われていたバターイエローやオーラミンなどのタール系色素に発がん性が確認されて使用を禁止されたこともあり、科学的な研究が進むにつれて、食品の人工的な着色は制限されつつあるのが世界的傾向です。
主婦連
戦後、昭和25年にたくわんの黄色は安全か(有害なオーラミンでした)、暮らしの不安や疑問などが多く寄せられたくあんの着色料オーラミンの使用禁止運動に取り組みました。
1953年(昭和28)6月有害着色剤オーラミンの使用禁止について要望し、人工着色料オーラミン使用禁止になりました。オーラミンはなくなっても人工着色した食品は依然として存在しています。
昭和30年10月10日 読売新聞 編集手帳より
市場や百貨店に並んでいる新しい沢庵、オーラミンの黄色い色で着色されうまそうに見える。タクワンをうまそうに見せるため有害オーラミンを使ったのを取締当局がいくら取締ってもオーラミンを使ったタクワンは市場から姿を消していない。
なぜ有毒着色のタクワンを売るのかといえば、あれに色つけないと買い手がいないと言う。そういう如何にも買い手のほうに罪があるいいかただ。
一時は売れなくなっても、消費者の方でまもなく毒のない安全なタクワンとわかったら売り上げは間もなく回復することは必定だ。
(コメント)この記事の筆者は当時のタクワンのことを知らなかった。昭和30年当時、すでに”オーラミン“は食品に使用禁止になっていて、市場には出回っていなかった。従って、業者の反論の投書を載せざるをえなかった。
昭和30年10月14日の読売新聞への投書
去る10月10日、は本誌・読売新聞(編集手帳)に市場や百貨店に並ぶ黄色いタクワンは、有害なオーラミンを使用したので食べると中毒を起こすとあたかも、黄色いタクワンが有害であるかのように印象を与えたことは誠に遺憾で、この様な誤解を訂正するため、全国タクワン業者を代表して、事実を基礎として反論する。
現在、市場に出回っている早漬け沢庵や一般のタクワンに使っている黄色染料は、すべて国家が食用着色料として許可したもので、すなわち食品衛生法第6条に基づく省令3号に明確に黄色タートラジンを許可する旨明記してあります。
(コメント)タクワン業者の意見は新聞の記事の反論になっていない。要はタクワンにどうして黄色く着色するのか?ということに説明がなっていない。着色許可されても使用しなくても良いはず。事実、江戸時代は人工着色料がなかった。
今でも、添加物使用を騒ぐ本は危険性を説くだけでその使用の歴史をただ(食品を売らんがため)と結論している。単にそうだろうか?
タクワンに着色した[タクワン王]の話
京都中野区鷺宮は幕府時代から,水田以外あらゆる畑に藍草を植え付けた産地でしたがドイツ製の優良なる化学染料が輸入されて、日本産の染料(藍)を圧倒しみるみる価格が暴落しました。練馬の隣なので藍草の代わりに大根を栽培することが藍草暴落のあと盛んになりました.我も我もと真似して栽培したので大根が生産過剰になり困り果てていました。明治27年、日清両国の談判が決裂し戦争が始まりました。朝鮮で戦争している時、日本は大根どころのさわぎでありませんでした。農民は大根に土をかぶせ、腐らせて肥料にするしかないと考えていました。そこに、藍草の暴落で破産寸前までになった大野家の青年・又蔵の耳に大根の状況の話が入りました。
「ただ捨てるようなゴミでさえ利用の仕方でいくらでもある世の中だのに、半年以上の労力と金をつぎ込んで美しく育てた大根をムザムザと腐らせてしまうのはもったいない話だ。何とかこれを利用してやる工夫はあるまいか。あるとすれば、村全体の利益になるし自分にも利益となる」と考えた。彼は藍草暴落で失った土地を買い戻すため、コツコツ貯めた金で農家から大根を安く買い占めました。そして、東京に行き酒屋から空の酒樽を買い集め、買い取った大根を洗い日干しにして、酒樽に漬け込みました。これがタクワン王の始まりでした。明治の中頃まで東京市内でも郡部でも、家庭用の漬物は青物(野菜)を買い入れて各家庭で漬けていました。わずかな料理店で漬物を少量購入するだけで商品として販売されていませんでした。このことに目をつけた又蔵は塩や糠の加減を調整しうんと味の良い沢庵を作り東京の漬物問屋に販売しました。又、彼は軍隊に納入し、日清戦争に出征中の兵士に提供したところ、好評でたちまち数百樽売りつくしました。この評判が全国に伝わり横浜・大阪方面から大量の注文が入りました。また、中国大陸に販路を広げ、日露戦争時に軍需の沢庵漬の利益で藍草の暴落で失った財産を取り戻しました。
昭和12年、又蔵の沢庵漬は海外(中国・台湾)に2万樽(4斗樽・70kg入り)輸出されていました。つまり、140万kg輸出していました。ちなみに、昭和36年の1月から8月の期間に日本の税関の統計によると、32万5千kgで、その輸出先は当時アメリカの占領下の琉球(沖縄)でした。また、彼の沢庵は国内にも輸出と同じくらい販売されていました。又蔵の沢庵輸出量の多さがわかります。
又蔵の沢庵漬の工夫とは甘味をつけ、着色したことでした。日本で沢庵漬を販売のために始めてウコンで黄色く着色したことでした
昭和40年代、まだ寿司ブームの前、日本食品の輸出のことを業界用語で(たくわん貿易)と言っていました。彼が沢庵漬を海外に広めた人で、韓国語でも沢庵漬を“タックワン”と言うそうです。
参考
化学藍
1880年(明治13年)ドイツで合成に成功し世界に広がった。化学藍はインディゴピュアが代表的な物だが他に、ヒアインディゴ、ニアインディゴなど色調が異なる化学染料もある。
同様にアニリン系の赤色染料の大量流入により、明治10年に紅花栽培は急速に衰退しました。ドイツから化学染料は衣類の着色だけでなく、食品にも使用されました。そのため、明治11年、わが国の食品衛生に関する最初の法規として、『アニリン其ノ他鉱属物性ノ絵具染料ヲ以テ食物ニ着色スルモノノ取締方』が施行されました。これは、食品に有害な着色料の禁止についての規則です
シナ事変が始まり、又蔵が昭和15年亡くなった時には海外輸出は割り当てになり物資の統制が始まり、働き手は戦場に取られ経済が窒息状態になった。
戦後,悪性インフレと農地改革,財産税というもので苦労し、大野家の所有する20万坪の大根原料産地を農地改革で失った。また。大根を栽培していた東京都中野区鷺宮付近の農地は宅地化し大根原料産地を他のところに求めねばならなかった。また、大口需要だった得意先の軍隊は消滅し、空襲で破壊された都市には工場や学生の寮は消えた。又蔵の息子たちは戦後の混乱をやっとのことで切り抜けたが土地の値上がりと相続税でどどめをさされた。今は都内の沢庵製造業者は皆無に等しい。
沢庵漬に関する調査 農林省農務局 昭和2年
沿革と概況
沢庵漬は各種漬物中の第一位を占め、都鄙(都会や田舎)を論ぜず貴賎を問はず、本邦人は日常生活上に必需副食物たり。その起源については詳に知ることあたわずといえども、一般に、昔・江戸品川東海寺の住職沢庵禅師の発明により、その名称・またこれに起こりしものなりと称せらる。然れども一説には、沢庵禅師は単にこの製造方法を広く宣伝普及したるにして、その名称は(貯え漬)の転じたものと称せらる。
従来・沢庵の製造は一般家庭に於いて行われ都会に於いても購入するもの僅かにして,従ってこの製造販売は比較的少量にしたり、明治中頃にしても、わが国における沢庵漬の最大の消費地・京阪市場においてすら、卸問屋の看板を掛けたるものは稀でにして小売業者もまた少数にすぎない状態なり、然るに戦争後にいたり、大いに需要増加し、特に元来沢庵漬けは丸乾大根単に糠と塩とに漬けたるものなりしが、近年、麹・砂糖・甘草・酒粕・昆布・煮干等の調味料、蕃椒(とうがらし)その他の香料・オーラミン等の着色料を用いて・品質・香味・色素等を佳良ならしむるもの多きにいたり。尚一方においては、沢庵漬を原料として粕漬その他加工品を製する等、幾多の改良製品を見るにいたりし結果、都市においては従来家庭にて漬け込みたるものが、次第に販売品を購入するに到り、今後ますます需要増加の傾向にあり、而してその供給は沢庵漬専門に多量製造するもの少なからず。農家の副業生産品もまた多い。
干し大根栽培農家 7000戸
沢庵製造農家 1000戸 20万樽 1樽約70kg入
非副業(専業) 200戸 40万樽
オーラミンとは人工着色料で戦後まもなく使用が禁止された。
タクワンが自然と黄色くなる理由
大根を塩蔵しておくとその辛味成分が分解し、長く漬けておくと黄色になります。この自然変色は、大根の辛味成分4-メチルチオ-3プテニル芥子油が漬け込み中に分解し,そこに生成した硫黄が大根のタンニンと結びついて黄色色素をつくることによって起こる。従って辛味の多い部分が早く黄色になる。この黄変がうまくいけば着色なしで黄色い沢庵が出来る。しかし、自然に出来た黄変は小売店の蛍光灯の光線に弱く、すぐに色あせてしまう。光に当たる部分は白く、うらは黄色いタクワンとなる。冷蔵庫など低温で漬けると黄色が抑えられて白く仕上がります。また、沢庵の匂いを嫌がる人が増えていますが、これも大根の辛み成分が化学変化して起きるものです。熟成中に出来た独特のこの香り、近年は消費者のニーズに応え、除去が研究されています。
沢庵漬が黄色くなるのは大根を塩漬けにすると自然に変化し黄色くなるものである。人為的に着色した理由はあまり知られていなくて、添加物を使用することを批判するする人から儲かるために黄色くしたとあるが『なぜ黄色くしたほうが儲かるか』が知られていない。着色したのが明治20年代から30年代の頃だろうか中野の沢庵業者が陸軍納めの沢庵を着色したことに始まる。なぜ陸軍納めの沢庵から着色が始まったか調べることにする。当時は軍隊とか寄宿舎だけで沢庵漬が自家製造でなく購入していた。色鮮やかな沢庵漬は粗末な食事に変化を与えただろう。同様にシソ梅酢で赤く着色した梅干も江戸時代からあった。
2007年10月29日 日本経済新聞朝刊より
朝刊のコラム「春秋」で「明治の半ばで、大勢の人間が白い飯を食べている場所は軍隊ぐらいであった。」と書いてあった。やっと探していた記事で沢庵漬が黄色くなった原因の根拠が文献によって確かめることが出来そうだ。
明治初期の徴兵制はかなりの人達が徴兵忌避出来て、例えば長男は行かなくてよいなどあって、何か軍隊に魅力的なものが必要であった。白いご飯が食べられるのが軍隊であって、軍隊で脚気がはやったのも頷ける。
森鴎外が日本兵食論を書いた事情も研究されていることと異なる事情があるように見える。結局日本人には欧米人と異なる風土に生きているので肉食を中心とした食事にすることは出来なかったのだろう。
明治時代、ドイツから輸入されたタール系色素は石炭を原料とする着色料で、安価なうえ、着色力も強いところから、食品加工に盛んに使用されていました。しかし、このタール系色素を含んだ食品を長期間摂取すると肝臓、腎臓障害を起すという毒性があるため、欧米では徐々に使用を規制し、米国で現在使用が認められているのはほんの少しだけです。日本でもかってタクワンやバターを黄色く色付けするのに使われていたバターイエローやオーラミンなどのタール系色素に発がん性が確認されて使用を禁止されたこともあり、科学的な研究が進むにつれて、食品の人工的な着色は制限されつつあるのが世界的傾向です。
主婦連
戦後、昭和25年にたくわんの黄色は安全か(有害なオーラミンでした)、暮らしの不安や疑問などが多く寄せられたくあんの着色料オーラミンの使用禁止運動に取り組みました。
1953年(昭和28)6月有害着色剤オーラミンの使用禁止について要望し、人工着色料オーラミン使用禁止になりました。オーラミンはなくなっても人工着色した食品は依然として存在しています。
昭和30年10月10日 読売新聞 編集手帳より
市場や百貨店に並んでいる新しい沢庵、オーラミンの黄色い色で着色されうまそうに見える。タクワンをうまそうに見せるため有害オーラミンを使ったのを取締当局がいくら取締ってもオーラミンを使ったタクワンは市場から姿を消していない。
なぜ有毒着色のタクワンを売るのかといえば、あれに色つけないと買い手がいないと言う。そういう如何にも買い手のほうに罪があるいいかただ。
一時は売れなくなっても、消費者の方でまもなく毒のない安全なタクワンとわかったら売り上げは間もなく回復することは必定だ。
(コメント)この記事の筆者は当時のタクワンのことを知らなかった。昭和30年当時、すでに”オーラミン“は食品に使用禁止になっていて、市場には出回っていなかった。従って、業者の反論の投書を載せざるをえなかった。
昭和30年10月14日の読売新聞への投書
去る10月10日、は本誌・読売新聞(編集手帳)に市場や百貨店に並ぶ黄色いタクワンは、有害なオーラミンを使用したので食べると中毒を起こすとあたかも、黄色いタクワンが有害であるかのように印象を与えたことは誠に遺憾で、この様な誤解を訂正するため、全国タクワン業者を代表して、事実を基礎として反論する。
現在、市場に出回っている早漬け沢庵や一般のタクワンに使っている黄色染料は、すべて国家が食用着色料として許可したもので、すなわち食品衛生法第6条に基づく省令3号に明確に黄色タートラジンを許可する旨明記してあります。
(コメント)タクワン業者の意見は新聞の記事の反論になっていない。要はタクワンにどうして黄色く着色するのか?ということに説明がなっていない。着色許可されても使用しなくても良いはず。事実、江戸時代は人工着色料がなかった。
今でも、添加物使用を騒ぐ本は危険性を説くだけでその使用の歴史をただ(食品を売らんがため)と結論している。単にそうだろうか?
タクワンに着色した[タクワン王]の話
京都中野区鷺宮は幕府時代から,水田以外あらゆる畑に藍草を植え付けた産地でしたがドイツ製の優良なる化学染料が輸入されて、日本産の染料(藍)を圧倒しみるみる価格が暴落しました。練馬の隣なので藍草の代わりに大根を栽培することが藍草暴落のあと盛んになりました.我も我もと真似して栽培したので大根が生産過剰になり困り果てていました。明治27年、日清両国の談判が決裂し戦争が始まりました。朝鮮で戦争している時、日本は大根どころのさわぎでありませんでした。農民は大根に土をかぶせ、腐らせて肥料にするしかないと考えていました。そこに、藍草の暴落で破産寸前までになった大野家の青年・又蔵の耳に大根の状況の話が入りました。
「ただ捨てるようなゴミでさえ利用の仕方でいくらでもある世の中だのに、半年以上の労力と金をつぎ込んで美しく育てた大根をムザムザと腐らせてしまうのはもったいない話だ。何とかこれを利用してやる工夫はあるまいか。あるとすれば、村全体の利益になるし自分にも利益となる」と考えた。彼は藍草暴落で失った土地を買い戻すため、コツコツ貯めた金で農家から大根を安く買い占めました。そして、東京に行き酒屋から空の酒樽を買い集め、買い取った大根を洗い日干しにして、酒樽に漬け込みました。これがタクワン王の始まりでした。明治の中頃まで東京市内でも郡部でも、家庭用の漬物は青物(野菜)を買い入れて各家庭で漬けていました。わずかな料理店で漬物を少量購入するだけで商品として販売されていませんでした。このことに目をつけた又蔵は塩や糠の加減を調整しうんと味の良い沢庵を作り東京の漬物問屋に販売しました。又、彼は軍隊に納入し、日清戦争に出征中の兵士に提供したところ、好評でたちまち数百樽売りつくしました。この評判が全国に伝わり横浜・大阪方面から大量の注文が入りました。また、中国大陸に販路を広げ、日露戦争時に軍需の沢庵漬の利益で藍草の暴落で失った財産を取り戻しました。
昭和12年、又蔵の沢庵漬は海外(中国・台湾)に2万樽(4斗樽・70kg入り)輸出されていました。つまり、140万kg輸出していました。ちなみに、昭和36年の1月から8月の期間に日本の税関の統計によると、32万5千kgで、その輸出先は当時アメリカの占領下の琉球(沖縄)でした。また、彼の沢庵は国内にも輸出と同じくらい販売されていました。又蔵の沢庵輸出量の多さがわかります。
又蔵の沢庵漬の工夫とは甘味をつけ、着色したことでした。日本で沢庵漬を販売のために始めてウコンで黄色く着色したことでした
昭和40年代、まだ寿司ブームの前、日本食品の輸出のことを業界用語で(たくわん貿易)と言っていました。彼が沢庵漬を海外に広めた人で、韓国語でも沢庵漬を“タックワン”と言うそうです。
参考
化学藍
1880年(明治13年)ドイツで合成に成功し世界に広がった。化学藍はインディゴピュアが代表的な物だが他に、ヒアインディゴ、ニアインディゴなど色調が異なる化学染料もある。
同様にアニリン系の赤色染料の大量流入により、明治10年に紅花栽培は急速に衰退しました。ドイツから化学染料は衣類の着色だけでなく、食品にも使用されました。そのため、明治11年、わが国の食品衛生に関する最初の法規として、『アニリン其ノ他鉱属物性ノ絵具染料ヲ以テ食物ニ着色スルモノノ取締方』が施行されました。これは、食品に有害な着色料の禁止についての規則です
シナ事変が始まり、又蔵が昭和15年亡くなった時には海外輸出は割り当てになり物資の統制が始まり、働き手は戦場に取られ経済が窒息状態になった。
戦後,悪性インフレと農地改革,財産税というもので苦労し、大野家の所有する20万坪の大根原料産地を農地改革で失った。また。大根を栽培していた東京都中野区鷺宮付近の農地は宅地化し大根原料産地を他のところに求めねばならなかった。また、大口需要だった得意先の軍隊は消滅し、空襲で破壊された都市には工場や学生の寮は消えた。又蔵の息子たちは戦後の混乱をやっとのことで切り抜けたが土地の値上がりと相続税でどどめをさされた。今は都内の沢庵製造業者は皆無に等しい。
沢庵漬に関する調査 農林省農務局 昭和2年
沿革と概況
沢庵漬は各種漬物中の第一位を占め、都鄙(都会や田舎)を論ぜず貴賎を問はず、本邦人は日常生活上に必需副食物たり。その起源については詳に知ることあたわずといえども、一般に、昔・江戸品川東海寺の住職沢庵禅師の発明により、その名称・またこれに起こりしものなりと称せらる。然れども一説には、沢庵禅師は単にこの製造方法を広く宣伝普及したるにして、その名称は(貯え漬)の転じたものと称せらる。
従来・沢庵の製造は一般家庭に於いて行われ都会に於いても購入するもの僅かにして,従ってこの製造販売は比較的少量にしたり、明治中頃にしても、わが国における沢庵漬の最大の消費地・京阪市場においてすら、卸問屋の看板を掛けたるものは稀でにして小売業者もまた少数にすぎない状態なり、然るに戦争後にいたり、大いに需要増加し、特に元来沢庵漬けは丸乾大根単に糠と塩とに漬けたるものなりしが、近年、麹・砂糖・甘草・酒粕・昆布・煮干等の調味料、蕃椒(とうがらし)その他の香料・オーラミン等の着色料を用いて・品質・香味・色素等を佳良ならしむるもの多きにいたり。尚一方においては、沢庵漬を原料として粕漬その他加工品を製する等、幾多の改良製品を見るにいたりし結果、都市においては従来家庭にて漬け込みたるものが、次第に販売品を購入するに到り、今後ますます需要増加の傾向にあり、而してその供給は沢庵漬専門に多量製造するもの少なからず。農家の副業生産品もまた多い。
干し大根栽培農家 7000戸
沢庵製造農家 1000戸 20万樽 1樽約70kg入
非副業(専業) 200戸 40万樽
オーラミンとは人工着色料で戦後まもなく使用が禁止された。
タクワンが自然と黄色くなる理由
大根を塩蔵しておくとその辛味成分が分解し、長く漬けておくと黄色になります。この自然変色は、大根の辛味成分4-メチルチオ-3プテニル芥子油が漬け込み中に分解し,そこに生成した硫黄が大根のタンニンと結びついて黄色色素をつくることによって起こる。従って辛味の多い部分が早く黄色になる。この黄変がうまくいけば着色なしで黄色い沢庵が出来る。しかし、自然に出来た黄変は小売店の蛍光灯の光線に弱く、すぐに色あせてしまう。光に当たる部分は白く、うらは黄色いタクワンとなる。冷蔵庫など低温で漬けると黄色が抑えられて白く仕上がります。また、沢庵の匂いを嫌がる人が増えていますが、これも大根の辛み成分が化学変化して起きるものです。熟成中に出来た独特のこの香り、近年は消費者のニーズに応え、除去が研究されています。