森山多吉朗の件
文政3年6月1日(1820年7月10 日) - 明治4年3月15日(1871年5月4日))は、江戸時代に活躍した日本の通詞
明治維新後の森山多吉朗の資料
高島嘉右衛門 横浜政商の実業史 松田裕之著 東京 日本経済評論社
福地桜痴 柳田泉著 東京 吉川弘文館
呑象高嶋嘉右衛門翁伝 植村澄三郎著
『海の祭礼』吉村昭著などがあります。
慶応4年1月大垣戸田藩は鳥羽伏見の戦いの時、幕府軍についいていたため、戸田藩重臣だった小原鉄心の説得で急遽西軍(朝廷軍)の先鋒となりました。東征軍は大垣で長期滞在し、ここで岩倉家と戸田家の関係ができました。中山道を東上し、関東の地までは快進撃だったようです。しかし関東での戦闘が始まると大垣藩の戦費が不足し、横浜の豪商高島嘉右衛門に頼み、オランダ人タッグから借りることなった。この時の通訳がオランダ語の出来る森山多吉朗でした。森山が維新後明治政府の通訳や語学の教官となることの誘いを断った理由ははっきりとした史料はないようですが維新後攘夷を唱えていた人たちの変節に対する反抗心とみることができます。
維新前後の横浜はすでに中国語、英語、フランス語の世界でした。長崎の貿易独占から開港した都市が繁栄するようになります。森山の仕事も横浜か函館しか選択の余地は無かったと思われます。
史料は見つかりませんが森山と高島を結びつける接点は浦賀奉行だった戸田伊豆守氏栄と想像できます。弘化4年2月浦賀奉行となった戸田はペリー来航後迄(嘉永7年)まで浦賀奉行でした。この間長崎通詞だった森山も浦賀詰めを何回か勤めていました。ペリー初来航時、森山は長崎にいて急遽江戸に戻りましたが間に合いませんでした。大垣藩小原鉄心はペリー来航時浦賀で待機していました。(野次馬整理)
高島嘉右衛門の姉は大垣戸田藩の戸田氏共の側室となった関係でした。高島嘉右衛門が幕府の禁制を犯したとき、戸田家は形だけの離縁をして難を逃れたようです。高島が石川島人足寄場(東京都中央区佃)に投獄されていたとき、蘭医三瀬周三も投獄されていました。三瀬は幕府が再来日していたシーボルトの通訳をしていた関係で情報漏えいを防ぐ目的でした。
石川島の獄中で高島は三瀬から世界情勢を学びます、また大垣戸田藩より隠れた支援が獄中の高島にあったようです。石川島出獄後、高島嘉衛門が横浜で活躍するようになります。異国人との商売のコツを得ていた高島に異人の注文が殺到しました。
また高島は異国人から情報を得ていて、欧米で成功している事業に次々と手を出してゆきます。鉄道、海運、学校、ガス事業など史料として残っています。明治3年4月25日(3月25日)から新橋横浜間の鉄道建設が始まりました。この時期に戸田氏栄3男の長井昌言(元神奈川奉行・堺町奉行・明治6年死去)も工部省鉄道局の仕事をしていました。また氏栄5男の花香恭次郎(福島事件被告人)も明治5年頃横浜で働いていたようです。全ては大垣戸田家と高島家とつながりが感じられます。高島が岩倉具視と関係することは岩倉具視3女極子が戸田家に嫁いだことと関係があると想像できます。
森山多吉朗が明治4年に死去したとき、残された娘を福地桜痴が養女としました。これは森山が福地を幕臣に推薦した恩でした。明治23年長井昌言の長男であった鶯亭金升は池の端の福地桜痴のところに住んでいました。後にみやこ新聞では福地の下で文芸部の記者として働いていました。ペリー来航時、浦賀で応接した中島三郎助は戊辰戦争最後の戦いであった函館千代ヶ岳で戦死しました。この時千葉行徳の漬物商人喜兵衛が戦死しています。(出典明治事物起源石井研堂著・缶詰の始まり)喜兵衛の子孫の名前が日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑にあります。山田箕之助。大正12年、日本缶詰協会の会合で福神漬の話をしたのが毎日新聞記者であった鶯亭金升でした。この話が缶詰時報2巻に載っています。
福神漬の色々なエピソードは裏日本史とも言える。
文政3年6月1日(1820年7月10 日) - 明治4年3月15日(1871年5月4日))は、江戸時代に活躍した日本の通詞
明治維新後の森山多吉朗の資料
高島嘉右衛門 横浜政商の実業史 松田裕之著 東京 日本経済評論社
福地桜痴 柳田泉著 東京 吉川弘文館
呑象高嶋嘉右衛門翁伝 植村澄三郎著
『海の祭礼』吉村昭著などがあります。
慶応4年1月大垣戸田藩は鳥羽伏見の戦いの時、幕府軍についいていたため、戸田藩重臣だった小原鉄心の説得で急遽西軍(朝廷軍)の先鋒となりました。東征軍は大垣で長期滞在し、ここで岩倉家と戸田家の関係ができました。中山道を東上し、関東の地までは快進撃だったようです。しかし関東での戦闘が始まると大垣藩の戦費が不足し、横浜の豪商高島嘉右衛門に頼み、オランダ人タッグから借りることなった。この時の通訳がオランダ語の出来る森山多吉朗でした。森山が維新後明治政府の通訳や語学の教官となることの誘いを断った理由ははっきりとした史料はないようですが維新後攘夷を唱えていた人たちの変節に対する反抗心とみることができます。
維新前後の横浜はすでに中国語、英語、フランス語の世界でした。長崎の貿易独占から開港した都市が繁栄するようになります。森山の仕事も横浜か函館しか選択の余地は無かったと思われます。
史料は見つかりませんが森山と高島を結びつける接点は浦賀奉行だった戸田伊豆守氏栄と想像できます。弘化4年2月浦賀奉行となった戸田はペリー来航後迄(嘉永7年)まで浦賀奉行でした。この間長崎通詞だった森山も浦賀詰めを何回か勤めていました。ペリー初来航時、森山は長崎にいて急遽江戸に戻りましたが間に合いませんでした。大垣藩小原鉄心はペリー来航時浦賀で待機していました。(野次馬整理)
高島嘉右衛門の姉は大垣戸田藩の戸田氏共の側室となった関係でした。高島嘉右衛門が幕府の禁制を犯したとき、戸田家は形だけの離縁をして難を逃れたようです。高島が石川島人足寄場(東京都中央区佃)に投獄されていたとき、蘭医三瀬周三も投獄されていました。三瀬は幕府が再来日していたシーボルトの通訳をしていた関係で情報漏えいを防ぐ目的でした。
石川島の獄中で高島は三瀬から世界情勢を学びます、また大垣戸田藩より隠れた支援が獄中の高島にあったようです。石川島出獄後、高島嘉衛門が横浜で活躍するようになります。異国人との商売のコツを得ていた高島に異人の注文が殺到しました。
また高島は異国人から情報を得ていて、欧米で成功している事業に次々と手を出してゆきます。鉄道、海運、学校、ガス事業など史料として残っています。明治3年4月25日(3月25日)から新橋横浜間の鉄道建設が始まりました。この時期に戸田氏栄3男の長井昌言(元神奈川奉行・堺町奉行・明治6年死去)も工部省鉄道局の仕事をしていました。また氏栄5男の花香恭次郎(福島事件被告人)も明治5年頃横浜で働いていたようです。全ては大垣戸田家と高島家とつながりが感じられます。高島が岩倉具視と関係することは岩倉具視3女極子が戸田家に嫁いだことと関係があると想像できます。
森山多吉朗が明治4年に死去したとき、残された娘を福地桜痴が養女としました。これは森山が福地を幕臣に推薦した恩でした。明治23年長井昌言の長男であった鶯亭金升は池の端の福地桜痴のところに住んでいました。後にみやこ新聞では福地の下で文芸部の記者として働いていました。ペリー来航時、浦賀で応接した中島三郎助は戊辰戦争最後の戦いであった函館千代ヶ岳で戦死しました。この時千葉行徳の漬物商人喜兵衛が戦死しています。(出典明治事物起源石井研堂著・缶詰の始まり)喜兵衛の子孫の名前が日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑にあります。山田箕之助。大正12年、日本缶詰協会の会合で福神漬の話をしたのが毎日新聞記者であった鶯亭金升でした。この話が缶詰時報2巻に載っています。
福神漬の色々なエピソードは裏日本史とも言える。