年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

タクワンの話2013-2

2013年08月20日 | タクワン
タクワンの話 2013-2
糠 普通は米の糠 小麦の糠はフスマ糠という
 糠とは玄米を精米した時に出る胚芽や種子の粉。
ビタミンB1、B2、ナイアシンなどが豊富に含まれており、食用や肥料 として利用されてきました。
糠の発生の歴史は大きく分けて①江戸時代以前、②江戸時代から昭和40年以前まで、③昭和40年以後現在までと分けることが出来る。江戸時代以前の米糠の利用の詳しい記録は今のところ見当たらない。
沢庵漬の糠(ぬか)江戸時代
戦国時代から江戸時代に変わるころ,用水土木技術が非常に発達し、新田開発の年貢が優遇されることによってますます土木工事が盛んになった。江戸時代の農業は、地域の資源を大事に集め、狭い地域で循環を完結させる農業だった。草を刈って畑にすき込んで肥料となし、人や牛馬の糞尿は堆肥にして畑にまく。林では小枝だけでなく落ち葉を集めて使う。室町時代には草地や林地は水田や畑の面積の2倍を占めていた。しかし、ゆき過ぎた新田の開発は洪水の多発を招いた。1666年頃に「諸国山川掟」という法令が出来て、新田開発が環境破壊をもたらすので抑制された。この後すでにできていた田畑をていねいに耕作することによって収穫をふやそうという政策に変わった。この政策は日本の基本的農業政策となり昭和30年代半ばに米が恒常的に余るまで続けられた。
 室町時代の水田の面積より江戸時代初めには1.5倍の面積になり,元禄時代には3倍になっていたといわれている。水田の面積の拡大と農業技術の発達と共に米の生産量が増え,江戸市中の武士や都市の町民は精白米を常食することが可能になった。
 江戸時代の農民は慶安のお触書〔なかったと言う説もある〕に書いてあるように米はなかなか食べられなかった。したがって米糠の発生量も少なかったとおもわれる。しかし,都市において米の価格が低下すると白米を常食するようになり、かなりの量の糠が発生したと思われる。江戸時代の都市において米糠の利用方法として,野菜の肥料、糠袋による入浴用洗剤、家の掃除、沢庵漬、糠味噌漬等に利用された。新河岸川の舟運の歴史を見ると、江戸からの下りの荷物に、糠、灰、塩等の荷物がある。
 糠を使用した大根の漬物は江戸時代以前から存在していたと思われるが広く江戸市民まで食するようになったのは米糠が大量、安価に手に入った江戸時代中期以後のことである。

三河島稲荷 (宮地稲荷) 荒川区荒川3丁目65  JR三河島駅より徒歩5分
三河島の総鎮守。脚気(かっけ)に霊験があり、成就した際に草鞋(わらじ)を奉納した。
江戸時代において、白米は贅沢品で、日常的に食べていたのは将軍や武士や、江戸・大阪など都会の一部の人間だけだった。白米を偏重した食事による脚気は「江戸わずらい」「大阪ばれ」とも呼ばれたのである。江戸から離れ地方に戻り精米していない米(玄米・ビタミンB1が豊富に入っている)を食べるので自然と直るのでそう呼ばれた。精米技術の未発達=未普及ということで脚気が日本全国に広まらなかった一因でもあった。八代将軍吉宗の頃より米価が下がり都市の庶民も白米を食べるようになり大衆病になりました。今では脚気はビタミンB1の不足で栄養障害とわかっているのですが、江戸時代には得体の知れない難病で死に至る病気で宮地稲荷に参拝するのが流行っていました。稲荷のそばに茶屋があり、玄米の食事を出していたので治療になっていたと言われていました。
 沢庵和尚は三代将軍家光の頃活躍していたので、和尚の使用した糠は別の用途で発生した糠と思われます。江戸時代の米糠流通の研究の文献がほとんど無く、糠問屋、糠仲間が存在するのだが糠がどこから発生し、どこにいくらで行ったか不明である。埼玉川越から江戸へ流れる新河岸川の舟運の歴史によると、大阪糠、尾張糠等がある。大阪糠は酒米の精米によって、発生した赤糠と思われ、尾張糠も同様と思われる。尾張(主として知多半島)地方は当時として、摂泉十二郷についでの酒の産地であった。
 ルイスフロイスの日本史によると彼が京都に滞在してとき(1565年ころ)籾殻つきの米を購入していました。
 ㈱サタケ 技術情報紙 TASTY 2000年vol.13より
今から500年ほど前までは米を白くするという意識はありませんでした。収穫した穂から籾をこぎ取り、その後臼に入れて杵で搗くことで籾を磨り,その過程で糠も無意識に剥がれていました。すなわち、モミ磨りと精米は同時に行われていたわけです。ですから白米といっても半搗き米でした。

日本兵食史 下巻 陸軍糧秣本廠編
 精白米が真に一般化されたのは町人文化爛漫と咲き乱れた徳川中期に於いてである。去れば、徳川中期における白米礼賛を見た原因はすでに戦国時代に白米への愛着が一般武士の間に発生しつつあったからだといい得る。しかし、戦国時代の当時は今日のごとく精白された米でなく、戦場にての兵食の米は黒米が用いられほんの少し杵があったったくらいの白米であった。戦国時代の朝鮮では白米が普及していて、(文禄慶長の役)秀吉の軍は非常に驚いたと伝えられている。
 家康は麦飯を愛用して白米を贅沢と戒めていた。
江戸時代初めの頃はまだ精米して食べるのが一般的でなく、糠の発生は都市でもまれにあっただけと思われる。
糠の用途
江戸時代の農書 往来物のひとつ「米徳糠藁籾用法教訓童子道知辺」(米の徳、糠・藁・籾の用い方を、子どもらに教えるための道しるべ)より
「玄米を搗くと、糠ができる。この糠も用途が多い。まず、人の素肌を洗い、ものについた油をこれで洗うと油気がよく落ちる。また、大根を糠と塩を混ぜて漬ける。これを沢庵の香の物という。紺屋 小紋糠と言い、細かくした糠を火で炒り、これを糊と混ぜて染物のうら、白くする所や紋所の上につけて置くと,そこに染料の藍が染み込めない。また、糠とまぐさとを混ぜて馬のえさとして与える。糠を火で炒って、小鳥のえさにする。畑の肥やしにもなるだろう。板屋根の竹釘や指物細工木釘を糠と混ぜて炒ると、糠の油が染み込んでどちらも丈夫になる」
 往来物(江戸の教科書)とは、平安後期から明治初期にかけての初等教科書の総称で、当初は貴族や武士の子弟教育のためだったが、江戸時代に、寺子屋等の教育制度が発達し庶民層にも教育が普及してくると、職業教育、道徳教育、一般教養等、庶民を対象とした様々な往来物が数多く作られた。いずれも日常生活に必要な知識や作法を身に付けることを目的として編纂され、各地域の文化、習慣に即した内容となっている。

あくまでも寺小屋の教科書であって、実際、糠が出るくらい精白した米を食べたのは都市部のみで、農村部は仮に糠が出ても肥料に回されたか、沢庵加工の糠として使われたと思われる。
徒然草 98段
一後世を思はむものは、糂汰(じんだ)〔糠味噌〕瓶一つも持つまじきことなり。
芭蕉
  庵に掛けんとて、句空が書かせける兼好の絵に
秋の色糠味噌壷もなかりけり  (柞原集)
松尾芭蕉 元禄4年、48歳の作。
 詞書にあるように、句空が『徒然草』を題材にした絵を持参し、それに讃を入れた。絵には、質素を旨とする兼好法師の庵が描かれ、それに糠味噌壷も描かれてはいなかったのであろう。徒然草では、「糂汰瓶<じんだがめ>」と書いているのを俗語で「糠味噌壷」と表現している。江戸時代の芭蕉の時代も糠味噌は壷ないし瓶に入っていたと思われる。兼好法師の時代の糠味噌は今で言う貧乏人の食事のときの万能の調味料であって,それさえ持ってはいけないということ。
常滑焼の糠味噌かめの久松(キュウマツ)さんの意見では、漬物の場合は塩を使用するために「塩こし」(容器から塩分がしみ出る)の問題がある。貫入とは、長期間使用することで生地に水分が含まれ、膨張収縮が繰り返されると釉薬にヒビが入り、ひどい場合は生地にまでヒビが入ってしまう現象です。貫入が入ると「塩こし」の原因となってしまいます。
沢庵漬の容器に壷や瓶を使用しなかったのは重石をかける必要があり、木の樽しか適当な容器がなかったためであると思います。
じんだ煮
小倉(北九州市)ではイワシやサバ、ちりめんを糠みそで炊いたものを「じんだ煮」とよんでいます。「じんだ」とは「ぬかみそ」の意味で、江戸時代に小倉城主・小笠原忠真が、じんだ煮が「陣を建てる」に通じるところから、縁起物として好んで食べたそうです。全国でも珍しい郷土料理です。
徒然草 98段
一後世を思はむものは、糂汰(じんだ)〔糠味噌〕瓶一つも持つまじきことなり。
芭蕉
  庵に掛けんとて、句空が書かせける兼好の絵に
秋の色糠味噌壷もなかりけり  (柞原集)
松尾芭蕉 元禄4年、48歳の作。
 詞書にあるように、句空が『徒然草』を題材にした絵を持参し、それに讃を入れた。絵には、質素を旨とする兼好法師の庵が描かれ、それに糠味噌壷も描かれてはいなかったのであろう。徒然草では、「糂汰瓶<じんだがめ>」と書いているのを俗語で「糠味噌壷」と表現している。江戸時代の芭蕉の時代も糠味噌は壷ないし瓶に入っていたと思われる。兼好法師の時代の糠味噌は今で言う貧乏人の食事のときの万能の調味料であって,それさえ持ってはいけないということ。
 常滑焼の糠味噌かめの久松(キュウマツ)さんの意見では、漬物の場合は塩を使用するために「塩こし」(容器から塩分がしみ出る)の問題がある。貫入とは、長期間使用することで生地に水分が含まれ、膨張収縮が繰り返されると釉薬にヒビが入り、ひどい場合は生地にまでヒビが入ってしまう現象です。貫入が入ると「塩こし」の原因となってしまいます。
沢庵漬の容器に壷や瓶を使用しなかったのは重石をかける必要があり、木の樽しか適当な容器がなかったためであると思います。
じんだ煮
小倉(北九州市)ではイワシやサバ、ちりめんを糠みそで炊いたものを「じんだ煮」とよんでいます。「じんだ」とは「ぬかみそ」の意味で、江戸時代初期に小倉城主・小笠原忠真が、じんだ煮が「陣を建てる」に通じるところから、縁起物として好んで食べたそうです。全国でも珍しい郷土料理です。
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